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ドストエフスキー

ここでは、「ドストエフスキー」 に関する記事を紹介しています。
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オススメ度:☆☆☆☆☆
賭博者 (新潮文庫)賭博者 (新潮文庫)
ドストエフスキー 原 卓也

死の家の記録 (新潮文庫) 貧しき人びと (新潮文庫) 虐げられた人びと (新潮文庫) 地下室の手記 (新潮文庫) 悪霊 (上巻) (新潮文庫)

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あらすじ(ネタばれ注意)
ある将軍一家と共にドイツの保養所に滞在していた家庭教師アレクセイは、界隈で開かれている賭場に興味を持っている。
彼が恋焦がれているポリーナは将軍の養女で家庭教師風情には目もくれないが、淑女としてギャンブルができない自分の代わりにアレクセイを賭場へ行かせルーレットをさせるなど、利用している。
将軍の家計は火の車で財産は全て抵当に入っているのだが、唯一の望みはモスクワに住んでいる裕福な祖母が死にかけていることだ。
ところがある日、当の祖母が彼らの滞在するホテルに乗りこんできた。彼女はぴんぴんしており遺産がすぐにあてにできないばかりか、アレクセイをお伴に賭場に入り浸り豪快に財産を擦っていく。
財政の危機に陥ったポリーナを救うべくわずかな軍資金を握って賭場に入ったアレクセイは圧勝し全てのポケットを金貨でふくらませるが、その金を捧げられたポリーナはアレクセイをそして金をも拒む。
ポリーナに拒絶されたアレクセイはたかりに身を任せ浪費し、すってんてんになってまた新しい賭場へと転々とする生活を送る



感想:


読んでいて興奮して涙が出る、息を飲み笑いながら泣いている。
人間というものが描かれすぎていて息が上がってしまう。

ドストエフスキーの作品の中でも珍しいタイプの形式美を持つ珍しいタイプの作品。

プーシキンの「スペードの女王」と共にギャンブル小説の金字塔。
共通しているのは、ギャンブルに手を染める当初の目的が恋愛というところだが、「スペードの女王」が不吉な予言に彩られたロマンチックな怪談の体をなしている典型的なゴシック・ホラーであるのに対し、ドストエフスキーの「賭博者」はあくまでもリアルに賭場の熱気やギャンブルの魅力を描いている。

「スペードの女王」にはギャンブルに引き込まれる理由として宿命という形で理屈があるが、「賭博者」にはそれがない。

ツキというものの輝かしさは十二分に描かれているのだが、それは核心ではなさそうなのだ。

何か法則があるかのように思えるところ、攻略できそうな気がしてしまうところ、それでいてその期待が裏切られるところ、そういったことをギャンブルの魅力として描いているように思う。
つまり、ギャンブルの理屈がないところそのものが人を堕落させる魔力なのだ。

いったん魅入られると、ここまで、とやめることはできない
勝ったからやめる、ということはできないし、ちょっと負けたからやめる、などはもっとできない。
破滅するまでギャンブルは繰り返される。この「繰り返し」もよく描かれている。
将軍の祖母の物語とアレクセイの物語がギャンブルにはまり破滅で終わるというまったく同じ筋書きをなぞっており、これが題材とマッチした形式で効果を上げている。
個々人の性質によってではなく、ギャンブルというものの特性が人をひきつけ堕落させるということを自ずから悟らせるのだ。

同じように、明日は我が身という様もよく描かれている。

「なんて腹の立つこったろう!人間一人、破滅しちまうなんて。つまり、自分が望んだってわけさ……見ちゃいられない、はらわたがひっくり返りそうだよ。なんてばかなんだろう!」こう言うと、お祖母さんは急いで反対側に向きを変えた。


このように他人の賭けごとを見物していた祖母はこのすぐ後にすべての証券を換金してルーレットに入れ込むのである。

形式に溺れないのがドストエフスキーの天才で、枠にはまらないドラマティックな展開とスピード感は実に見事だ。

ところでドストエフスキーはいつも「愛に似て非なるもの」を書き、愛について考えさせられるところが多い作家だ。ドストエフスキー的世界において愛は大きな存在だが最高のものでも最大のものでも最後のものでもない。
最初は愛として描かれていたはずのものがドラマが進むに従ってやがて愛ではないものに変わってしまう。
そこに哀しみが皆無だというところがなんともドストエフスキーの魅力なのだ。

「そのうちいつかあなたを殺したら、僕は自分も殺さなけりゃならなくなるでしょうね。ただそれも、あなたのいなくなった耐えきれぬ苦痛を味わうために、できるだけ永く自分を殺さずにいるでしょうよ」


このように激しい愛を語っていた男が、
より一層悪魔的なギャンブルへと飲みこまれ、愛を忘れてしまう。
そもそもそれは愛ではなく、悪魔的なものへの傾倒が愛のような見せかけで表れたにすぎなかったのかもしれない…そんな気すらしてくる。

かなり読みやすいのでドストエフスキーを読んだことのない人に最初の一冊としておすすめ。

web拍手

関連タグ : ドストエフスキー,

オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメポイント:インスピレーションと孤独。シベリア流刑
死の家の記録 (新潮文庫)
死の家の記録 (新潮文庫)ドストエフスキー 工藤 精一郎

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あらすじ:

シベリア流刑地。ドストエフスキーを待っていたのは民衆との真実の出会いだった。

「死の家の記録」には、ドストエフスキーが体験した1849年から1454年のシベリア流刑でのできごとが、洞察力に富んだ人間観察と深い考察で事細かに記されている。

ドストエフスキーは1849年4月、社会主義運動を行ったために仲間と共に逮捕された(ぺトラシェーフスキー事件)。
社会主義国家実現への準備として文書印刷や集会によって民衆を啓蒙しようというのがその活動の内容であった。

政府当局がこれらの人々を懲らしめるために仕組んだ罰は…、
死刑を宣告して刑場に連れ出し、銃口を向けて死の恐怖を味あわせ
そこへ皇帝の恩赦による罪一等減で本来の刑、「シベリア流刑」を告げるというものだった。
この企みによって、中の一人は発狂したという。
この体験と、この後に続くシベリアでの4年間の監獄生活、およびその生活の中で悪化したてんかんは後に生まれるドストエフスキーの名作に結実することとなる。

このような経緯もあり、当局の検閲を受けたために体裁として冒頭に【妻殺しで流刑を経験したある偏狭な男の酒気】というノンフィクションの形を取っているが、いかにも体裁で、妻殺しについて語られることは一度もなく、しめくくりも一人称のまま、ノンフィクションとして練り上げる気は全くなかったようだ。

感想:


読んで驚くのは、監獄生活が、ずいぶん自由だということだ。
殺しなどの極悪犯罪を犯した罪人の暮らしが、こんなに自由なものなのか。
単に私の意識が、刑務所での罪人の生活を「死んだも同然」とみなし無視しているのかもしれない。

囚人たちはポケットマネーで良いおかずを買うこともできるし、内職をして小遣いを稼いだり、酒の密売をしたり、女を買ったりすることもできる。
芝居を企画し稽古して舞台に載せるのも恒例行事だし、クリスマスも感謝祭も楽しみがある。
監獄というよりは、厳しい寄宿舎である。

(寄宿舎と違うのは鞭打ちがあるということと、勉強をしなくて良いというところだ。)

囚人たちを自由にしている管理のいい加減さは、不衛生や劣悪な食事などの面も見せる。
垢だらけの囚人たちが一斉に入る入浴シーンや寄生虫だらけの病院は地獄絵図。

囚人同士の共同生活で、ドストエフスキーは平民や差別されている外国人を身近に見た。
殺気立った関係とはいえ、家族同然の距離で階級の違う人々と生活を共にした。
刺激的だっただろう。
それが「死の家の記録」のレポートが濃密な理由だろう。

そして平民を間近に見て親しみ全人類に通じる普遍的な真実を見出しても、なおそこに歴然と存在するもの、それは自分たち貴族と民衆との間の、決して超えることのできない溝だった。

「でも……でも、あなた方がわたしたちのどんな仲間なんです?」と彼はけげんそうに訊ねた。


貴族とは言っても、ドストエフスキーは医者の息子で、父親の官位からぎりぎり貴族に認定されるラインだった。
レフ・トルストイが伯爵家の生まれであるのとは全く違う家柄だ。

だからこそ、その貴族と民衆との間の溝は大きなものとして感じられたのかもしれない。
社会主義運動に参加しても、囚人という同じ立場であっても、貴族の中でもほとんど平民のような立場であっても、絶対に仲間になることはできないのだという事実を。

形式として読みやすい形に整っているわけではなく、徒然の覚書を情感に従って並べたものといった体なので、わかりやすいとは言えない。

描かれている多数の人物をわかりやすく分類したり、細かな事件を時系列でとらえたりするのには向いていないが、仮にそれを試みて編集しなおした場合、新たな優れた物語が多量に生まれるだろう。

ドストエフスキーの作品の中でも非常に密度の高いバイブル、何度も読み返す価値のある本だ。

死の家の記録 (新潮文庫)
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ドストエフスキーの墓

答えは、「続きを読む」から…
オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメポイント:ゴシックホラー
白痴 (上巻)
白痴 (上巻)ドストエフスキー

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starsドラマティックな内的悲劇
stars初ドストエフスキーでREVIEWを書くのもおこがましいのですが、、、
stars胸に迫る。
starsふたつの問題提起
starsドストエフスキーは好きです

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「白痴」の七割は恋物語。残りはホラーだ。
と自信満々で言い切っておきながらなんだが、私はいつだってドストエフスキーが意図したのとは全く別のことにこころ魅了され深く感銘を受けているのだからあまりあてにしてはいけない。

「白痴」というほとんど文学の世界でしか使われず、差別的な意味からかIMEの変換候補にも出てこない言葉をタイトルに冠すると、自然どうにも難しい内容の、日常からかけ離れた世界が書かれた小説という気がするが、そんなことはちっともないのだ。
原題はバカという意味だそうだから、そのまま「バカ」というタイトルに訳せばもっと爆発的に売れるだろう。(「ドストエフスキーで何か読んで来い」と宿題を出された高校生はこぞってAmazonの検索一覧からこの本を選ぶことだろう。)でもそのタイトルにしても思っていた内容とちがったという苦情が噴出するに違いない。
この物語において白痴とは主人公ムイシュキン公爵だが、彼は馬鹿ではないからだ。
彼はまれに見る子供っぽく世間知らずで善良な男だ。重いてんかんを抱えていたために生い立ちに暗い時期があるが、彼を知るものは誰でも、彼を好きにならないわけにいかない。

しきりと繰り返される子供というモチーフは、子供に対してだけでなく、さまざまな人々に対してしつこく使われる。誰もが子供なのだ。そしてその繰り返しの中で子供っぽさは人間のある美点として確立されていく。誰もが笑い馬鹿にしながら愛してきた、いわば語るに足ると思われていなかったそんなものをまごうかたなき美点として捉えることは、あまりに独特で風変わりなので、そんなやり方でしか形にすることができない。

ドラマの見事さと深い人間洞察のために、恋物語としてホラーとしての展開に固唾を飲むのだけれど、美・純潔といった古いテーマを扱いながら語られたことのない新しいものを短絡的な形容などに飽き足らずドラマの中での繰り返しという形式を駆使して具現化していく試みは交響曲の構造に似ていて、終わったあとに余韻を残す。

子供と呼ばれた人々の末路は伝説めいているが決して華々しくも輝かしくもなく、かかっているのは祝福ではなく呪いだ。

ドストエフスキーの純潔と善良と精神の危うさはとても近いところにある。


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白痴 (下巻)
白痴 (下巻)ドストエフスキー

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stars突き抜けた天邪鬼
starsいやいいですよ
stars文豪は「美しい人」を造形したのではない
stars「愛する」という生き方

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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:初めてドストエフスキーを読む人に
オススメポイント:ヘンリー・ミラーは「永遠の夫」が最高の小説だ、と言った。

4102010076永遠の夫
ドストエフスキー 千種 堅

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頭のおかしくない人間って、いるのだろうか。
私が知り合った人は例外なくみんなどこかに問題をかかえていて、完全に正常な人なんかひとりもいなかった。「まともなひと」として頭に浮かぶのは「親しくなかったひと」の姿ばかりだ。
人間なんて誰だって、深く知れば知るほどみんなキチガイなのだ。
私はそんな風に思っている。
もちろん、誰よりも近く親しい自分自身は異常の最たるものであることは言うまでもない。

永遠の夫のトルソーツキイには「罪と罰」のズヴィドリガイロフと共通する部分がある。主人公へ接近してくる不気味な執着、若く美しい娘に対するむき出しの好色さ。これが読者にもむっと匂うほどにあつかましいのだ。
この距離感は、先に書いた深く知れば知るほどみんなキチガイという感覚に通じると私は思っている。ページを開くと、登場人物はすべての手続きを飛び越え瞬時に「深く知れば知るほど」に知ってしまった近しい人々のように心にどかどかとあがりこんでくる、現実の人間だって心や精神を病んでいない限りもうすこし取り澄まして”夢を見させて”くれるものだ。ドストエフスキーは、すごい。

首都ペテルブルクにある男がいる。名前はヴェリチャーニノフ。男は体調を崩しめんどうな訴訟に巻き込まれて気難しくなってはいるが、上流階級の人間で、その気になれば教養や社交センスを発揮することのできる魅力的な男だ。
そこに突然数年の空白を経て再会するのがトルソーツキイ。彼は執拗にヴェリチャーニノフに付きまとう。ヴェリチャーニノフは嫌悪を覚えながらも振り払いきることができない。なぜなら彼には後ろ暗い記憶があった。彼はかつてトルソーツキイ一家と近しく交際していた頃に、トルソーツキイの亡き妻と姦通していたのだ。

この小説の好ましいところは、「ある女を挟んだ二人の男の物語」ではなく、「二人の男の物語」であることだ。亡き妻・昔の愛人は強い影響力を持たず、主張しない。そこが真実味があると思うのだ。特に近年好まれるテーマとして、死んだ誰かの存在がある仲間達や人物の中で存在感を発揮し続け、その不在をめぐって不毛な物語が進行する、というものがあるけれど、私はそんなのはうそっぱちだと思う。趣味の悪いネクロフィリアを美辞麗句で飾っただけだ。
この二人の男は互いを信じられず、嫌悪し憎み、それでも互いの間のある種の愛に戸惑う。トルソーツキイの「永遠の夫」でいるしかない愚昧な無能さ、それは無邪気で素直に人を信じる純粋さでもある。
トルソーツキイが我が娘だと思い込んでいた少女が実はヴェリチャーニノフと妻との不義の子だったと知っていることを悟ったときのヴェリチャーニノフの想像の濃やかさ、優しさはそれを語っている。

やっぱり、死人のように青くなったんだろうな、きっと。”と、ふと、鏡に映った自分の顔を見て考えた。”きっと読んでから、目を閉じ、そして、あるいはこの手紙がただの白紙に変わってくれるのではないかと期待して、突然、また目を開いたに違いない……。きっと、三度くらいは、そんな試みを繰り返したのではないか……”

ここで全てが身近になる。物語の中にぽんと引き込まれ、狂人だと思っていたトルソーツキイの隣に突然座っている。
そして最後のページを閉じる頃、トルソーツキイは再び赤の他人のような顔をして汽車に飛び乗ってヴェリチャーニノフと別れる。けれど私はいつも心に呟く。「さようなら、愛すべきひと」

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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:誰にでも自信をもってオススメ☆☆☆☆☆
オススメポイント:ロシア最大・不世出の天才。トルストイのように説教をしない。多くの作家の憧れの人。高いエンタメ性と文学性。

4102010211罪と罰 (上巻)
ドストエフスキー

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「罪と罰」この小説のテーマは題名通り。
深遠なテーマだ。でも深遠なテーマなんてすなわちありふれたテーマだ。誰の発明でもない。羅列する気にもならない。小学生だって語れる。
ドストエフスキーの天才はけれどなんといってもその「あまりに人間が描かれている」ことにあるだろう。
殺人を犯したラスコーリニコフが物語の中盤、最愛の母と自慢の妹を目の前にして悟る場面。「またしても彼は恐ろしいほどはっきりとさとったのだ、いま彼がおそろしい嘘を言ったことを、そしてもういまとなってはゆっくり話をする機会などは永久に来ないばかりか、もうこれ以上どんなことも、誰ともぜったいに語り合うことができないということを」という箇所を読んだとき、私はランチを食べに入ったレストランのテーブルで思わず小さく声をあげ、文庫本を強く握った。
「人を殺してはかわいそう」「神はすべて見ている」「捕まって死刑になっちゃうよ」「誰も知らなくても良心がとがめて苦しむ」・・・
人間の真実は犬だって知ってるそんなルールにあるのではなく、まして実際の犯罪者が何を感じ何を考えるかにあるわけでもない。それはどんなに立派でも、またどんなにショッキングでも、所詮は表面的なことだ。
ダケド、イッタイ、ナゼ?
罪を犯したがゆえにもう二度と誰ともこのやわらかさを分かち合えないこと。
ナゼコノコトガコンナニモ確実ニ私ノ胸ヲ衝クノ?
ラスコーリニコフに対しても殺人の動機についても私は同情も共感も一切ない。彼はおおよそ読者に愛情を抱かせるタイプの人物ではない。単なる傲慢で怠惰な青二才。(「この人物を読者にこう思わせてやろう」という意図が全く匂わないのもドストエフスキーの才能のひとつだ。)
にもかかわらずラスコーリニコフの、その焼かれるような孤独。それは、背もたれに寄りかかり食後のコーヒーを待ちながらページをめくる私に見事な一撃を喰らわす。
なぜならそれは、「ズウット私ガ恐レテイタコト」だからだ。
つまり、真実とは、私達が心の底で、その奥深くで、ずっと恐れていることそのもの、救いも解決もなく恐れ続けていることそのものなのではないか。
そして真実は物語の枠を超え、ラスコーリニコフを超える。
私は泣いてしまう。号泣してしまうのだ。昼間のレストランで。ラスコーリニコフのためでなく、夫のために、家族のために、友のために、私のために。

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