びぶりおふぃりあ  ブックレビューとオススメの海外ドラマ・映画のあらすじと感想。顔面血管腫(赤アザ)カバーメイク体験談

ロシア文学

ここでは、「ロシア文学」 に関する記事を紹介しています。
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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメポイント:ゴシックホラー
白痴 (上巻)
白痴 (上巻)ドストエフスキー

おすすめ平均
starsドラマティックな内的悲劇
stars初ドストエフスキーでREVIEWを書くのもおこがましいのですが、、、
stars胸に迫る。
starsふたつの問題提起
starsドストエフスキーは好きです

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「白痴」の七割は恋物語。残りはホラーだ。
と自信満々で言い切っておきながらなんだが、私はいつだってドストエフスキーが意図したのとは全く別のことにこころ魅了され深く感銘を受けているのだからあまりあてにしてはいけない。

「白痴」というほとんど文学の世界でしか使われず、差別的な意味からかIMEの変換候補にも出てこない言葉をタイトルに冠すると、自然どうにも難しい内容の、日常からかけ離れた世界が書かれた小説という気がするが、そんなことはちっともないのだ。
原題はバカという意味だそうだから、そのまま「バカ」というタイトルに訳せばもっと爆発的に売れるだろう。(「ドストエフスキーで何か読んで来い」と宿題を出された高校生はこぞってAmazonの検索一覧からこの本を選ぶことだろう。)でもそのタイトルにしても思っていた内容とちがったという苦情が噴出するに違いない。
この物語において白痴とは主人公ムイシュキン公爵だが、彼は馬鹿ではないからだ。
彼はまれに見る子供っぽく世間知らずで善良な男だ。重いてんかんを抱えていたために生い立ちに暗い時期があるが、彼を知るものは誰でも、彼を好きにならないわけにいかない。

しきりと繰り返される子供というモチーフは、子供に対してだけでなく、さまざまな人々に対してしつこく使われる。誰もが子供なのだ。そしてその繰り返しの中で子供っぽさは人間のある美点として確立されていく。誰もが笑い馬鹿にしながら愛してきた、いわば語るに足ると思われていなかったそんなものをまごうかたなき美点として捉えることは、あまりに独特で風変わりなので、そんなやり方でしか形にすることができない。

ドラマの見事さと深い人間洞察のために、恋物語としてホラーとしての展開に固唾を飲むのだけれど、美・純潔といった古いテーマを扱いながら語られたことのない新しいものを短絡的な形容などに飽き足らずドラマの中での繰り返しという形式を駆使して具現化していく試みは交響曲の構造に似ていて、終わったあとに余韻を残す。

子供と呼ばれた人々の末路は伝説めいているが決して華々しくも輝かしくもなく、かかっているのは祝福ではなく呪いだ。

ドストエフスキーの純潔と善良と精神の危うさはとても近いところにある。


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白痴 (下巻)
白痴 (下巻)ドストエフスキー

おすすめ平均
stars突き抜けた天邪鬼
starsいやいいですよ
stars文豪は「美しい人」を造形したのではない
stars「愛する」という生き方

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関連タグ : ドストエフスキー, ロシア文学, ロシア,

オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:愚かな人間の可愛さを知る人に
オススメポイント:「我々は皆ゴーゴリの”外套”から生まれた」とドストエフスキーは言った。
外套・鼻外套・鼻
ゴーゴリ 平井 肇

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芥川龍之介の「鼻」と同様、ゴーゴリの「鼻」も滑稽な話だ。
目や唇が恋情の詩に歌われるのと比すと、鼻は顔の部位の中でも独特の記号なのだと思う。額は賢さを、眉は良識を、頬は心を映し、顎はけなげ、耳は慎重さを表している。そして鼻が象徴するのは、プライド・見得・自意識。
それを失ったとき人間はどんなにおかしげなものか。
鼻を、ではない。プライドや見得を支えてくれるものを、だ。
八等官コワリョーフの鼻が彼の顔から取れて独立した人格となる。その様たるやまるで立派な紳士、しかも様子からしてコワリョーフよりも上官の五等官に化けている。
立派な容姿で持参金の多い娘の心を捉えてやろう、またいっぱい遊びもしてやろうともくろんでいたコワリョーフにとって、鼻を失うということは致命的だった。
彼は動転し、街中でやっと鼻を見つける。
自分の鼻に戻ってきてくれるようせがむが、鼻のほうでは「はぁ?」という様子で相手にもしない。「だいたい服装から察するに私達所属部署が違うじゃないですか」と鼻を失ったコワリョーフの窮状に”場違い”とばかりの痛烈な常識でぴしゃり!去ってしまう。
コワリョーフは知り合いの未亡人が自分に復讐するために鼻を取ったと言いがかりをつけたり、新聞社に鼻の行方を尋ねる広告を出そうと躍起になったり。
もうこの男、完全に我を失っている。
さて彼の見当外れな活動は全く実を結ばない。
ところが鼻は思いもかけぬ方面から戻ってきて、また思いもかけぬ拍子抜けで顔に付くのだ。これが愉快なところ。
やれやれ彼はめでたく、ちょっといい気な独身男に逆戻り。

無駄な説明をざっくり省いたゴーゴリのセンスはロシアの伝統的な小話アネクドートに通じている。アネクドートで笑えたためしがないんだけど、ゴーゴリはとんでもなく楽しく、その大胆な省略は想像の余地に満ちている。
床屋のパンの中から出てきた鼻は煮えていないのか?下手人を言い切らないのはなぜなんだ?警官は眼鏡のおかげで見破った?なんで紳士が自分の鼻だと気付いたの?
「見てないと思って、小説なのをいいことに!」と読んで心はしゃぐのだ。
自分の鼻が自分より立派である、話しかけるのに身構えするほど立派である、というのは人間のプライドに対する鋭く深い揶揄。しかし非難や皮肉よりも耳に聞こえるのはどっと沸き起こる笑いだ。
ゴーゴリには貧しき人々、不運な人々への優しさがあると言う。彼の後トルストイやドストエフスキーに続いている腐敗した官僚制度・コネなども描かれている。
しかし私がもっとも強く感じるのは、貧しき者、無力な者たちの最良の友はいつの世も、ユーモアなのだ、ということだ。


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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:初めてドストエフスキーを読む人に
オススメポイント:ヘンリー・ミラーは「永遠の夫」が最高の小説だ、と言った。

4102010076永遠の夫
ドストエフスキー 千種 堅

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頭のおかしくない人間って、いるのだろうか。
私が知り合った人は例外なくみんなどこかに問題をかかえていて、完全に正常な人なんかひとりもいなかった。「まともなひと」として頭に浮かぶのは「親しくなかったひと」の姿ばかりだ。
人間なんて誰だって、深く知れば知るほどみんなキチガイなのだ。
私はそんな風に思っている。
もちろん、誰よりも近く親しい自分自身は異常の最たるものであることは言うまでもない。

永遠の夫のトルソーツキイには「罪と罰」のズヴィドリガイロフと共通する部分がある。主人公へ接近してくる不気味な執着、若く美しい娘に対するむき出しの好色さ。これが読者にもむっと匂うほどにあつかましいのだ。
この距離感は、先に書いた深く知れば知るほどみんなキチガイという感覚に通じると私は思っている。ページを開くと、登場人物はすべての手続きを飛び越え瞬時に「深く知れば知るほど」に知ってしまった近しい人々のように心にどかどかとあがりこんでくる、現実の人間だって心や精神を病んでいない限りもうすこし取り澄まして”夢を見させて”くれるものだ。ドストエフスキーは、すごい。

首都ペテルブルクにある男がいる。名前はヴェリチャーニノフ。男は体調を崩しめんどうな訴訟に巻き込まれて気難しくなってはいるが、上流階級の人間で、その気になれば教養や社交センスを発揮することのできる魅力的な男だ。
そこに突然数年の空白を経て再会するのがトルソーツキイ。彼は執拗にヴェリチャーニノフに付きまとう。ヴェリチャーニノフは嫌悪を覚えながらも振り払いきることができない。なぜなら彼には後ろ暗い記憶があった。彼はかつてトルソーツキイ一家と近しく交際していた頃に、トルソーツキイの亡き妻と姦通していたのだ。

この小説の好ましいところは、「ある女を挟んだ二人の男の物語」ではなく、「二人の男の物語」であることだ。亡き妻・昔の愛人は強い影響力を持たず、主張しない。そこが真実味があると思うのだ。特に近年好まれるテーマとして、死んだ誰かの存在がある仲間達や人物の中で存在感を発揮し続け、その不在をめぐって不毛な物語が進行する、というものがあるけれど、私はそんなのはうそっぱちだと思う。趣味の悪いネクロフィリアを美辞麗句で飾っただけだ。
この二人の男は互いを信じられず、嫌悪し憎み、それでも互いの間のある種の愛に戸惑う。トルソーツキイの「永遠の夫」でいるしかない愚昧な無能さ、それは無邪気で素直に人を信じる純粋さでもある。
トルソーツキイが我が娘だと思い込んでいた少女が実はヴェリチャーニノフと妻との不義の子だったと知っていることを悟ったときのヴェリチャーニノフの想像の濃やかさ、優しさはそれを語っている。

やっぱり、死人のように青くなったんだろうな、きっと。”と、ふと、鏡に映った自分の顔を見て考えた。”きっと読んでから、目を閉じ、そして、あるいはこの手紙がただの白紙に変わってくれるのではないかと期待して、突然、また目を開いたに違いない……。きっと、三度くらいは、そんな試みを繰り返したのではないか……”

ここで全てが身近になる。物語の中にぽんと引き込まれ、狂人だと思っていたトルソーツキイの隣に突然座っている。
そして最後のページを閉じる頃、トルソーツキイは再び赤の他人のような顔をして汽車に飛び乗ってヴェリチャーニノフと別れる。けれど私はいつも心に呟く。「さようなら、愛すべきひと」

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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:誰にでも自信をもってオススメ☆☆☆☆☆
オススメポイント:ロシア最大・不世出の天才。トルストイのように説教をしない。多くの作家の憧れの人。高いエンタメ性と文学性。

4102010211罪と罰 (上巻)
ドストエフスキー

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410201022X罪と罰 (下巻)
ドストエフスキー

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「罪と罰」この小説のテーマは題名通り。
深遠なテーマだ。でも深遠なテーマなんてすなわちありふれたテーマだ。誰の発明でもない。羅列する気にもならない。小学生だって語れる。
ドストエフスキーの天才はけれどなんといってもその「あまりに人間が描かれている」ことにあるだろう。
殺人を犯したラスコーリニコフが物語の中盤、最愛の母と自慢の妹を目の前にして悟る場面。「またしても彼は恐ろしいほどはっきりとさとったのだ、いま彼がおそろしい嘘を言ったことを、そしてもういまとなってはゆっくり話をする機会などは永久に来ないばかりか、もうこれ以上どんなことも、誰ともぜったいに語り合うことができないということを」という箇所を読んだとき、私はランチを食べに入ったレストランのテーブルで思わず小さく声をあげ、文庫本を強く握った。
「人を殺してはかわいそう」「神はすべて見ている」「捕まって死刑になっちゃうよ」「誰も知らなくても良心がとがめて苦しむ」・・・
人間の真実は犬だって知ってるそんなルールにあるのではなく、まして実際の犯罪者が何を感じ何を考えるかにあるわけでもない。それはどんなに立派でも、またどんなにショッキングでも、所詮は表面的なことだ。
ダケド、イッタイ、ナゼ?
罪を犯したがゆえにもう二度と誰ともこのやわらかさを分かち合えないこと。
ナゼコノコトガコンナニモ確実ニ私ノ胸ヲ衝クノ?
ラスコーリニコフに対しても殺人の動機についても私は同情も共感も一切ない。彼はおおよそ読者に愛情を抱かせるタイプの人物ではない。単なる傲慢で怠惰な青二才。(「この人物を読者にこう思わせてやろう」という意図が全く匂わないのもドストエフスキーの才能のひとつだ。)
にもかかわらずラスコーリニコフの、その焼かれるような孤独。それは、背もたれに寄りかかり食後のコーヒーを待ちながらページをめくる私に見事な一撃を喰らわす。
なぜならそれは、「ズウット私ガ恐レテイタコト」だからだ。
つまり、真実とは、私達が心の底で、その奥深くで、ずっと恐れていることそのもの、救いも解決もなく恐れ続けていることそのものなのではないか。
そして真実は物語の枠を超え、ラスコーリニコフを超える。
私は泣いてしまう。号泣してしまうのだ。昼間のレストランで。ラスコーリニコフのためでなく、夫のために、家族のために、友のために、私のために。

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