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三島由紀夫

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オススメ度:☆☆☆☆★

仮面の告白 (新潮文庫)
仮面の告白 (新潮文庫)三島 由紀夫

おすすめ平均
starsとりあえず
stars三島作品の入門編として最適
stars「素面」と「「仮面」の戦争
stars三島文学に慣れてきたら・・・
stars思ったよりもすごい

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『仮面の告白』はホモセクシュアルであることを告白した小説である、という認識が広くあるのではないだろうか。
私は特にゲイやレズビアンに興味もないが、メディアで彼らが取り上げられ、目に触れる機会は多い。そして知り得た情報によると、彼らの抱えている問題のひとつに、「カミングアウト」がある。
ゲイもレズも一見してわかるものではない。女だから、男だから、と周囲は結婚や出産を期待する。友人知人も、見た目の性から女友達、男友達といった暗黙の距離感のもとの関係を期待する。それらの期待を断り生き易くありたいという願いや、本当のことを打ち明けて誠実な関係を持ちたいという願いがカミングアウトさせることもあるだろう。また、アイデンティティを確立するためにまわりに知らしめる必要があったり、せざるは勇無きなりと障害として乗り越えたかったり、という自分自身の動機ですることもあるだろう。
『仮面の告白』はこうした、私がメディアを通じて間接的に見聞きする彼らの告白とは全く違うものである。

第二次世界大戦戦時下の東京で、主人公はいわば庶民よりもひとつ上の階級に属して青春を送っている。良い家に育ち、良い学校に通い、世間では物がなく苦しんでいる時に優雅に花見をしたりしているのだ。(これは私たちが植え付けられている戦時下のイメージが辛苦に偏りすぎているということなのかもしれないが)。
彼は幼少のころから肉体労働をする男に惹かれており、ついに中学校二年生のときには同じクラスの男、近江に恋をする。近江は不良で、他の同級生とはまったく違った大人びた体の持ち主だった。


 彼は雪に濡れた皮手袋をいきなり私のほてっている頬に押し当てた。私は身をよけた。頬に生々しい肉感がもえ上がり、烙印のように残った。私は自分が澄んだ目をして彼を見つめていると感じた。
 ――このときから、私は近江に恋をした。


その一刹那、私は彼と目と目を合わせた。まことの一刹那だった。彼の顔から道化た表情は消え、あやしいほど真率な表情が漲った。敵意とも憎しみともつかぬ無垢な激しいものが弓弦を鳴らしていた。それはわたしの思いすごしであったかもしれなかった。指先を引かれて体の平衡を喪った瞬間の、むしろむなしい露わな表情であったかもしれなかった。しかし私は、二人の指の間に交わされた稲妻のような力の戦きと共に、私の彼を見詰めた一瞬の視線から、私が彼を―ただ彼をのみ―愛していることを、近江が読み取ったと直感した。
 ――二人は殆ど同時に遊動円木からころがり落ちた。


どちらのエピソードも胸がはっとする美しさである。同性愛云々を超え、片恋というものをよく表現している。若い頃の片想いの、あの、張り詰めた琴線に相手の一挙手一投足がメッセージとして引っかかってくる感覚。恋をしているのは彼になのか、偶像化された果ての何物かになのか。
主人公は近江にこれほどに恋しながら、精神的なつながりを求めない。近江が読んでいる本を覗き込むと隠し、見せない。「羞恥からではなかった。彼が書物なんかに興味を持つこと、そこで彼が不手際を見せること、彼が自分の無意識な完全さを厭うようになること、こうしたあらゆる予測が私には辛いからだった。」要するに、馬鹿にしているのである。近江の体に恋をし、神々しいまでにあがめながら、彼の知性を馬鹿にしているのだ。

次に彼が恋に落ちるのは同級生の妹、園子である。近江とは逆に、彼は園子の精神に惹かれるが、彼女にキスした瞬間、彼女に欲望を抱くことが出来ないことを悟る。

戦争が終わらなかったことが彼を絶望させる。戦争は彼の隠れ蓑だった。いずれ戦争で死ぬのだと思うことで、自らの抱えている女に対して不能であるという秘密、すなわち人生に対して無能であるという事実から逃れていたのだ。

そもそもホモといってもオナニーしかしていないのである。オナペットが男である、というだけで、男に対しても童貞なのだ。女に対して不能なのではない、他人に対して不能なのだ。
近江に欲望を打ち明けることもできなかったし、園子に不能を打ち明けることもできない。
彼はいつも思う。『なぜ今のままではいけないのだ』、と。
この仮面を被ったまま、自らを誰にもさらけ出さぬままでいたい。

三島由紀夫の私小説として知られているこの作品は、しかし三島由紀夫そのものではない。物語の登場人物のモデル(祖母や園子)は実在したらしいが、三島由紀夫自身は結婚し一男一女を儲けているので女性にも能力があった。
それもこれもまた仮面ではないだろうか。『仮面の告白』自体が三島由紀夫の仮面のひとつではないか。
『仮面の告白』は仮面を脱ぎ去ることではないのではないか。
三島由紀夫は生涯仮面を被り、常に新しい仮面を探して生きていかなくてはならなかったのではないだろうか。この後に続く作品群も、ボディビルも、盾の会も。そしてどれもが上手くできているのに、根を張ることができずに、求めていた人々からの呼応が得られない。賞賛されるのに、みんなついてこない。

太宰治に「あなたの文学が嫌いだ」と面と向かって言ったというエピソードは有名だが、嫌う理由は良くわかる。太宰治にできたこと、全てをさらけ出すということ、それが三島由紀夫にはできなかった。どうしても、できなかったのである。

物語の幕切れ、主人公は人妻となった園子に「女を知っているのか」と尋ねられる。

「おかしなことをうかがうけれど、あなたは、もうでしょう?もう勿論あのことはご存知のほうでしょう?」
私は力尽きていた。しかもなお心のばねのようなものが残っていて、それが間髪をいれず、尤もらしい答えを私に言わせた。
「うん、・・・・・・知ってますね。残念ながら」
「いつごろ」
「去年の春」
「どなたと?」
――この優雅な質問に私は驚かされた。彼女は自分が名前を知っている女としか、私を結びつけて考えることを知らないのである。
「名前は云えない」
「どなた?」
「きかないで」
あまり露骨な哀訴の調子が言外にきかれたものか、彼女は一瞬おどろいたように黙った。顔から血の気が引いてゆくのを気取られぬように、あらん限りの努力を私は払っていた。別れの時刻が待たれた。
(後略 文中一部漢字をかなで表記)

きっと、愛していたのだろうな。園子のことを。
昔の洋画のような、音楽が聞こえるラストシーンである。

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関連タグ : 三島由紀夫, 同性愛,

オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:ノーマルもアブノーマルも
オススメポイント:息のむプレイ

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)
サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)三島 由紀夫


おすすめ平均 star
star時代を超え光芒を放つ〈昭和の名戯曲
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star18世紀フランス版熟年離婚。

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「でもその貞淑はお母様から教わったものですわ。」
「ああ、お前が貞淑というとみょうにみだらにきこえる。どうしてだろう。私は前からそんな気がしていた」
「では、それなら私の愛情は・・・・・・」
「その言葉のほうは、又妙にみだらでなさすぎるのだよ」
倒錯。そのゆがみにこだわるゆえに回りくどい言葉で、その悦びが自慢ゆえに下卑た言葉で、語られることが多いアノ世界。が、しかし。
登場する人物はすべて女、彼女たちの共通項であるサド侯爵は常に舞台の外から黒い影を落としているのみ。
この会話を交わすのははサド侯爵の妻であるルネと彼女の母親であるモントルイユ夫人である。おまえの貞淑はみだらで、愛情はみだらでなさすぎる、この宣告がしかも実母から下されることで、ルネの倒錯は舞台に吊るし上げられる。
母親は更に娘に迫り、彼女の秘密を暴き立てる。
「おしまいまでおきき。アルフォンスは黒ビロードのマントを室内で羽織り、白い胸をはだけていた。その鞭の下で、丸裸の5人の娘と一人の男の子が、逃げまどっては許しを乞うていた。長い鞭が、城の古い軒端のツバメのように、部屋のあちこちを飛び交わした。そしてお前は・・・」
「ああ!(ト顔をおおう)」
「天井の枝付燭台に手を吊られていた。丸裸で。痛みに半ば気を失ったお前の体の、雨のえにしだの幹に流れる雨滴のような血のしずくが、暖炉のほのおに映えてかがやいていた。公爵は少年を鞭でおどかして、公爵夫人の身を清めるようにいいつけた。少年はまだ背が低かったので、椅子を踏み台にしてお前の吊られている体にとりつき、・・・・・・どこもかしこも、(ト舌を出し)・・・・・・舌で清めた。清めたのは血ばかりではない。・・・・・・(間。)ルネ。(トルネに近付く。ルネしりぞく。)・・・・・・(ト更に近付く。ルネ更にしりぞく。モントルイユ、その襟元を掴む。ルネこれを両手でふせぐ。モントルイユ、にわかに手を離す)」
もはやこれは母娘のやり取りではなく、神をも恐れぬ背徳的な交わりなのだ。
その責め具はぴたりとあわせたまぶたの裏にも燦然ときらめく言葉。そして品位は、手も下されずにおとしめられる。


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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:難しいな。。
オススメポイント:三島の手を見よ。
金閣寺金閣寺
三島 由紀夫

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肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持っている。不具者も、美貌の女も、見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追い詰められて、存在そのもので見返している。見たほうが勝ちなのだ。弁当を喰べている柏木は伏目でいたが、私には彼の目が自分のまわりの世界を見尽くしていることが感じられた。

私の左頬には、生まれつき赤いあざがある。
見える場所に人と違う何かがある、というのは、例えば機能的な障害とは違うことのように思う。機能とは、たぶんそれ自体とても独立したもので、そこには清潔な価値がある。でもただそれが見た目だけの障害だった場合、それを持つ者の抱える問題はひどく抽象的になる。
それは容易に想像されるような「多くの人と違う」、ということではなく、「多くの人が見なくて済むものが見えてしまう」ということだ。
私はそれを、人と人をさえぎる透明の壁だと思っている。私達は誰でもその壁にさえぎられているけれど、平時はそれに気付かずに暮らしている。しかし落とし穴に落ちたように突如その壁に突き当たる人もいれば、私のようにその壁に赤いあざが張り付いて、子供のころからまざまざとそれを見せつけられるということもある。
問題はあざではなく、透明の壁なのだ。そのことに気付くのに、私は二十年以上の歳月を費やしてしまった。他の人々が思春期を過ごし青春を謳歌する間、私は泥臭い経験を幾千も積み上げ、やっとのことでそれを自分の言葉に捉え、やっと軽蔑を脱し人間にリンクすることができたのだった。

さておき先の引用箇所を初めて読んだ時、まだ私はその個人的な戦いの最中にあった。そしてそのとき初めて、才能というものの優しさを知ったように思う。
私もまさに見られることに疲れ、存在そのもので見返していた。
誰も言葉にしてくれないことを、言葉にしてくれること、その解放。言葉というものの持つ力。言葉が解き放つ呪縛。優しさは思いやりや愛にだけではなく、才能というものにもあるのだ。

三島は観念を具現化する鬼で、読みながら対話し知恵比べしているようなスリルを味あわせてくれる唯一の作家だ。金閣寺がこの小説の中で象徴する役割、童貞を捨てるのに失敗する場面で主人公の脳裏に浮かぶ金閣寺の像など、「観念的過ぎて説得力がない!」と切り捨てたくなることしばしばだ。しかし三島は私の考えを読んでそれに応えるように、さらに観念を押し進めてくる。蜜蜂と菊の戯れ、南泉斬猫の講話などで、これでもか、これでもか、と打ちたててくる。そして逆説的に金閣寺を実在させてしまう。
その支えの力強い手。見るとそれはごつごつとした骨に筋肉のついた男の手だ。三島は、色っぽい。
けれど簡単に心揺さぶられないのは、描かれるあらゆることが象徴を託されているせいだ。無意味の余地が全くない。
たとえば不具。不具というものの役割、象徴性。不具とは三島作品で期待されているほど絶対的なものではないと、私は感じている。
主人公はどもりに、柏木は内翻足に、最初から最後まで閉じ込められている。でも、性欲の理不尽さは美醜をしばしば凌駕するし、そもそも愛はたぶんもっと、残酷なものなのだ。けして理由や絶対性を見せては、くれない。
私達を隔てる透明な壁、そのゆがみ、その厚み。問題は不具でも美しさでもなく目に見えないこの壁なのだ。私達は苦しみによってしかその壁をなぞることができない。ごつごつとした生の感触、その痛み。意味を求めるべきは苦しみにであって、不具そのものには期待するほどの意味はない。
誤解を恐れず言えば、不具そのものの意味など陳腐なのだ。
さて。私はそう言い切って三島を切り捨てる。主人公が金閣寺を燃やしたように。猫を斬ったように。
そして立ち上がろうとすると、三島の見透した最後の行はどうだ。

別のポケットの煙草が手に触れた。私は煙草を喫んだ。一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。

私の負けだな、と私は呟く。
そうだったのか。すべてこのため、最後に惜しげもなく崩すため、打ちたてた観念だったのか。観念は燃やされ、生はこれから湧き起こるのだったか。
そしてそのとき眼前にまばゆく金色に立ち現れるのだ、燃えてしまったはずの金閣寺が。

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