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哲学

ここでは、「哲学」 に関する記事を紹介しています。
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オススメ度:☆☆☆★★
オススメ対象:広く老若男女。
オススメポイント:人間に生まれたからには哲学しなきゃ!
はじめの哲学はじめの哲学
三好 由紀彦

筑摩書房 2006-03
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哲学・科学・宗教はかつて一つのものだった。
それは唯一の学問であり、政治そのものだった。
しかし文明の発達がそれぞれを別々のものにしてしまった。
科学だけが爆発的に発展したのだ。
この本は哲学の基本的な命題を有名な哲学書の引用、平明な文章、すばらしい順序による構成、わかりやすいたとえによって解説している。
中でも面白かったのは現代科学への哲学的なアプローチである。現代に気分としてはびこっている勘違い、素粒子やビック・バン、遺伝子など、これまで科学が解明してきたさまざまな事実こそ、この世界の成り立ちを説明してくれる究極の真理だとという大きな思い込みに対しての疑問は読んで納得のいくものだ。

子供時代に科学の発展について教えらた私は、全てが科学によって解決されたのだという錯覚を植え込まれた。頭でっかちの、小さな体に。人間の平均寿命はこの数百年の間に画期的に伸ばされ、数多くのワクチンが開発され、レーザーや放射線による治療は日々洗練されていく。子供心に死というものを非常に恐れていた私は科学の強大な力に大いに期待を寄せた。死などというものは単に時代遅れで無粋な「過去の過ちに過ぎず」、もはやそんな下らないミスをおかすものはいないのだ、と。
少なくとも、と私は思った。私が死ぬまでの何十年のあいだ、もしくは年をとったりしはじめるまでの十何年のあいだ、それくらいの時間の間に、何か解決策がみつかるに違いない、人類はその一歩手前にいるのだ、と。

けれどもちろん、人は死ぬ。
自分が不死身でないことを思い知ったのはいつのことだったか。自分が老いていくことを思い知ったのはいつのことだったか。それは不思議と病気や怪我や危険とは無関係な、たぶんただ単に夕暮れの眺め春の終わりの庭の風景、そんな瞬間に降りてきた感覚だったように思う。
寿命が延びることと、不死とはまったく違うものだ。寿命が一日、一ヶ月、いや、一年延びたとしても、我々は全く不死には接近していないのだ。それは全く別のことなのだ。


私たちにできることといえば、せいぜい世界の一部分に適用する真理、すんわち幾何学や生理学、あるいは物理学などから得られた「とりあえずの根っこ」を見つけながら、日々の生活を少しでも楽なものにしていくぐらいのことでしかないのでしょうか。

この一節に大きく頷く。

また、宗教がおしなべて死後に世界があることを前提としているのを否定する形で科学があるというのは間違いで、科学もまた、死後に世界が存在するということを前提として発展してきた、という論は面白い。
しかしまだ未完成で考えられきれていないという匂いがする。この場合の死後に存在する世界というのは、この現世が我々個人の死後にも存続するということであり、(確かに科学はその前提のもとになりたっている)そんなことは宗教が生まれるよりはるかまえから皆知っていたことなのだから。
このあたりからさらに推し進めて考えてみようじゃないか。自分たちで。

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関連タグ : 三好由紀彦, 哲学,

オススメ度:☆☆★★★
オススメ対象:頭髪の残りが気に掛かったら
オススメポイント:紀元前のバーコード

人生の短さについて 他二篇人生の短さについて 他二篇
セネカ Lucius Annaeus Seneca 茂手木 元蔵

岩波書店 1980-11
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「ねえ死んだらどうなるの?」
子供の頃そう聞くと父は
「何もなくなるんだよ」
と答えた。
しばらくの間、父はなぜあんな心無いことを言ったのだろうと、私は考えていた。子供に教えるにはあまりに身勝手な正しさに思えたから。そうだ、子供に教えるとしたら、星になるとか、きれいなお花畑のあるばしょでおばあちゃんに会えるとか、そういうことを言うのがまともじゃないか?
でも今にして思えば、誰よりも父自身が「何もなくなる」ことを恐れていたのだろう。その理不尽さへの恐れは、彼自身にもどうにもならないほど深かったに違いない。その魂の震えが、その瞬間に、娘に継承されたから。そのとき、私たちの背骨は一列に繋がったから。
その日から、私はその解けることのない謎を抱えている。そしてきっとわが子にもそれを引き継いでしまうのだろう。
さておき、父はその代償というか、代替機能として、私にひとつのレトリックを与えた。それはたぶんギリシャかローマ時代の古いレトリックだったと思う。
「目的地までの残りの距離を二等分し、つねに1/2しか進まないよういすれば永遠に目的地まではたどり着かない」
確かに新宿を目指して大門を出発し、まず青山一丁目まで、次は千駄ヶ谷、ここから信号いくつとか、何歩とか、何センチとか、数学的には夢幻に1/2できるわけだから、永遠に新宿に辿りつかない。
それを父は死を恐れる私に、人生に当てはめてみせて与えたのだった。
レトリックにごまかされるのはたいてい大人であって、子供の直感はその滑稽さを見破っている。私もそれが時間という否応ないものにあてはめるのは無理だということは嗅ぎつけていて、「1/2だけ進むなんてことができるもんか」ということは知っていたのだが、それでもそのレトリックは私を救ってくれた。
死んだら何もなくなる、そのシンプルさから、私の目をそらしてくれた。今でも私はそのレトリックに時折すがっているのだ。

セネカの「人生の短さについて」は、限りある人生を世俗を離れ隠遁し正しい生き方をすることによって永遠に変えることができる、と説いている。求めているのは永遠に終わらない生であることが中国の老荘思想などに比してもそのあがきたるやなんとも幼稚に思われる。そこで私は思い出す、父の教えてくれた、1/2のレトリックを。
「まず半分にするんだ、そして半分だけ進むんだ、そしてまた半分にする。ずうっと半分にできるんだから、何もなくなったりはしないんだよ。」
私の背骨は父を通ってはるかはるか紀元前にまでさかのぼり、ずっととけることのない謎を受け継いでいる。

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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:生あるもの
オススメポイント:僕は、僕は、僕は生きたい!

自殺について 他四篇自殺について 他四篇
ショウペンハウエル Arthur Schopenhauer 斎藤 信治

岩波書店 1979-01
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ショーペンハウアーは、熱い。
厭世主義だとか、冷徹だとか、私は一度もそんなふうに感じたことがない。
ゲーテに認められた程の文学的才に語られる哲学は鋭く真理を突く、だけでなくロマンティックだ。
哲学書についての感想、は難しい。私もこのうすっぺらい、主著「意志と表象としての世界」の補遺だけでも理解し切れていない部分が多くある。のみならず、哲学書について語ることは小説のように一冊の本の中に封じ込められたひとつの世界について語ればいいというものではなく、その本の外側にある全世界について語らなければならなくなる、ということが言えるだろう。にわかじこみの用語やこなれていない引用でなしに、自分なりにそれを言うことが、もっとできるようになればと切望しているのだがなかなか叶わない。

けれど彼の哲学の根底をなしているもの、それは我々現代人がいまだ抱いているちぎれるほどの思いだと言い切れる。
我々はなぜ死なねばならぬのか、なぜ我々が死んでも世界は続いていくのか。
私たちの解放された自我。解放されてはならなかった自我。それはもはや至上の位置を確立してしまっているのに、なぜその消滅がありうるのか。

「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」の8.余興としての小対話篇は彼の論理をわかりやすく説明している。
トラシュマコス:「僕は、僕は、僕は生きたいのだ!これこそは僕の切なる願望だ。理屈で以って漸くそれは僕のものだという風に納得させられねばならぬような現存在などは、僕にはどうでもいいのだ」」
フィルラートス:「だがねえ、ようく考えて見給えよ!「僕は、僕は、僕は生きたい」と君は叫ぶけれど、そんな風に叫んでいるのはなにも君だけではないのだ。むしろすべてのものが、意識のほんのかすかな影だけでももちあわしているものであれば文字通りにすべてのものが、そう叫んでいるのだ」

ショーペンハウアーのロマンチックな発熱は、そこから”私”を”我々”に雪崩れ込ませるところだ。すなわち、生を得てやがて死んでいく”我々”は単に間接的にだけ個体であるにすぎず、つまり死すらかりそめのもの、”我々”は「生きたい」という意志のもとひとつであり、生きたいという盲目の意志として”我々”は永遠に存在し続けるのだ、と断言しきる情熱なのだ。


生きたい、私は生きたい。私も、そう叫んでいる。

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