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多和田葉子

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オススメ度:☆☆☆☆★
エクソフォニー-母語の外へ出る旅-
エクソフォニー-母語の外へ出る旅-多和田 葉子

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冒頭:

二〇〇二年十一月、セネガルのダカール市で開かれたシンポジウムに参加した。



あらすじ・概要:
ドイツに居住し、ドイツ語でも創作をする多和田葉子がさまざまなシンポジウムやワークショップに参加しながら考察した様々な言語のエクソフォニーのエッセイ。

感想:
エクソフォニーとは、母語以外で創作された文学のこと。
この本は一部と二部に分かれ、一部はは世界各国の都市名をタイトルとし(パリ、ボストン、モスクワ・・・)、その都市での出来事をきっかけとしてエクソフォニーを語っている。
二部はドイツ語や日本語の単語をゆっくりめでながら、構造に見られるルーツ、また逆に他人の空似とも言うべき音韻や視覚の類似を示し、偶然性の生み出すあらたな表現の可能性を見出していく。
第一部「ロサンジェルス」で「それに、わたしはたくさんの言語を学習するということにはそれほど興味がない。言葉そのものよりも二ヶ国語の間の狭間そのものが大切であるような気がする。わたしはA語でもB語でも書く作家になりたいのではなく、むしろA語とB語の間に、詩的な峡谷を見つけて落ちて行きたいのかもしれない。」と語っていることの実践だろう。
しかし、一部の方が面白い。

言葉を探し当てるときの凝縮された時間やこれだという表現を見出したときの脳の中で化学反応が起こるかのような熱の感覚は共感できる。
「マルセイユ」で行われた作家交流プログラムで意味がわからないフランス語を一日何時間も耳を傾けてセッションしていくうちに起こった神秘的な異変、お告げのような夢。

原色の蛇が地べたをなまなましく這いまわり、木の芽がぎらぎら光っている。その芽の緑が、見ているわたしと見られているわたしとの間の隔たりを超えて、わたしの中に伸びてくる。しかも、蛇や芽の「実体」が言語だということがはっきりとわかる。(中略)ちょっと空気が震えただけで、泣いたり、喚き散らしたり、人を殺したくなる。


こういったものを読ませてもらうと、多和田葉子がこのようなプログラムに参加できる環境に身を置いていることが私にとっても(きっと私たちの文化にとっても)幸運だと感じる。
また、ベルリンで性をテーマにした文学フェスティバルに呼ばれ、「ヘテロセキュシュアル文学」(異性愛)、「ホモセクシュアル文学」、「フェティッシュとサドマゾ」、という分類のいずれにも多和田葉子は入らず、「その他」という集まりに呼ばれた、というのはわが意を得たりであった。
ライフワークとなっているピアノと朗読とのセッションについて語っている部分もあるので、朗読に興味がある人は目を通しておくと良いだろう。
「モスクワ」にはちょっとショッキングなことも書かれている。多和田葉子の言葉ではなく沼野充義の「W文学の世紀へ」からの引用なのだが、「一ページに一個や二個、誤訳のない翻訳書は存在しない、すると三百ページの本なら五、六百は誤訳があることになる」というのである。外国語ができない以上、必ず間違いを含んだ情報に頼るしかないとは、考えてみれば当然のことではあるが、恐ろしいことではあるまいか。産地偽装とまでいうと悪意や犯罪の領域になってしまいたとえとして不適切かもしれないが、流通の中、消費者は無力にならざるを得ないの感は共通である。見ぬもの清しという言葉もあるが・・。
「ボストン」での、「作者が移民であることは、文学にとって本質的なことではない。しかし、文学そのものの持つ移民性を照らし出すために、移民である作家について考えることが役に立つ場合もあるだろう」というくだり、文章としては説得力があるけれど、「文学そのものの持つ移民性」ってなんなのかがまるでわからない。言及されてもいない。筆がレトリックに滑ったのだろうか。それとも私が不勉強なだけなのか。「文学の移民性」についてご存知の方はぜひ教えてほしい。私は本気です。よろしくお願いします。
「ソウル」には朝鮮半島での日本の過去、およびそれが清算されていないことのためにはっきりとものが言えない、という実に煮え切らないことが書かれており、がっかりした。ほとんど幻滅したと言ってもいいくらいだった。

エッセイは深い落とし穴のあるものだ。誰でも書けるがいてなかなかうまく書けない。ことにこういったまじめな題材となると、専門以外にも深い教養が試されてしまう。多和田葉子の本作はこと言葉と創作という分野においてはさすがとうならせられることしきりの上質なエッセイではある。しかし意外とドイツ語および創作以外のこと(日本語の成り立ちや近代史について、政治家について)は詳しいわけでも一家言あるわけでもなく、成績の良い学生並にとおりいっぺんの知識なんだな、というところも見えてくる。

DATA:
10進分類:913.6
内容分類:純文学
メインテーマ:不明

著者名:
著者出身国:日本
時代背景:現代

漢字の難しさ ☆★★
表現の難しさ ☆★★
文体の読みにくさ ☆★★
テーマの重さ ☆☆☆
テーマの難解さ ☆☆☆
テーマの普遍性 ☆☆★
所要時間:(15分刻み)
1時間30分

エクソフォニー-母語の外へ出る旅-
エクソフォニー-母語の外へ出る旅-多和田 葉子

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関連タグ : 多和田葉子, 言語, 外国語,

オススメ度:☆☆☆★★

三人関係
三人関係多和田 葉子

講談社 1992-03
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冒頭:

九時十七分着の夜行列車が中央駅に止まると、車体が傾いていたのか、それともプラットホームが傾いていたのか、私は列車から降りようとした時、けつまづいて放り出され先に飛んでいった旅行かばんの上にうつぶせに倒れてしまった。背後で男の声がしたが、それが私が押したんじゃありませんよ、という意味なのか、わからなかった。(かかとをなくして)



収録作品:
かかとをなくして
三人関係

あらすじ:
かかとをなくして
   書類結婚でヨーロッパにやってきた主人公は、教えられた住居に行くが夫に会うことができない。道行く人にかかとを見つめられ、かかとに欠陥があると指摘される主人公は、やがて夫の部屋の鍵をこじ開ける
三人関係
   心酔している女流作家と夫である画家とその教え子との三角関係ならぬ三人関係へのしずかな妄想。吉行淳之介の『鳥獣蟲魚』や小池真理子『恋』を思わせる。

感想:
黙るしかない、という相手がいる。
「この前アフリカのコンテンポラリーアートの展覧会に行っ―――」
「アフリカのコンテンポラリーアート?今アフリカのコンテンポラリーアートって言った?」
「・・・・・・うん、だいたい活動の場はパリとかニューヨークとかなんだけ―――」
「でしょ。アフリカに、コンテンポラリーアートはないわよね」
終わり。
彼ら一人一人の活動の場がどこであっても、アフリカ人である人々の作品を伝統やヨーロッパからの抑圧などのいくつかのテーマごとに展示した展覧会は見ごたえがあったのだが、すっかり出鼻をくじかれて、黙ってしまった。
彼女はとても頭の良かった幼馴染で、何事も彼女に話をするのがいつも楽しみだったのだが、高名な評論家に師事するようになるととんでもなく鼻持ちならなくなり、おまけに退屈になった。彼女が退屈な人になったのではなく、ただ会って話をするしか遊びがなく、またそれで充分だった関係が突然、私が喋らせてもらえなくなったので退屈するのだ。
多和田葉子の話である。
「多和田葉子って、すごくいいなと思って―――」
「あれ?あなた、『かかとをなくして』をけなしてなかった?ピンとこなかったって。」
「ああ、あれ、多和田葉子だっけ。私がいいと思ったのはね、『アルファベットの傷口』と、」
「そうよ、ピンと来なかったって言ってたわよ。私、ああいう人が文学者なんだと思うわ。うちの先生は最初から彼女を認めていたの。他の人たちは半信半疑だったけれど、ぜったいすばらしいって、言ってたんだって」
「・・・・・・そう」
以来怖いような気がして、『かかとをなくして』を再読する機会を失っていた。
恐る恐る読んでみると、やはりピンと来なかった。安心した。

列車での旅、学校への奇妙な憧憬、異国での戸惑い、のどかでリアルな性、これらは後にもずっと登場する多和田葉子特有のモチーフである。
ストーリーは社会に属さない異邦人である主人公がひとりごちに他人や彼らのルールを解釈し奇妙な共生をしながら、摩り替わり移ろっていく自らの目的を探求しするというパターン。
『罰を受けないカフカ』―――そこにもはやカフカの面影はないが―――とでもいうような穏やかな異分子であり、悲しみのメタファーとしての不条理である。
それもこれも多和田葉子特有のものなのだが、私が好きな多和田葉子ではない。
それは、主人公が無知無能な理由が単に無知無能によるもののように感じられるからだ。
多和田葉子は本当に頭の良い人だ。
日本でも高名な賞をいくつも取っているし、ドイツ語でも小説を書いていてドイツでの評価も高い。それが文字の間からはっきりわかる。
にもかかわらず主人公が無知無能であるがゆえに社会からドロップアウトしているというのが、何かすっきりしない。もやもやした不快感が残る。
後の作品では、主人公が社会不適合として疎外される理由も無知無能という役割を与えられる理由も「異邦人」ということになっている。『かかとをなくして』ではおかしいのは自分ばかりだが、後の作品では周りの他人もおかしいのだ。とてもシンプルだし、隠しようのない知性にもそぐう。

追記:
ところで、『かかとをなくして』のイカのことは、どのように受け止めたらいいのだろう。それがずっと自分を覗いていたと思うとコミカルにならざるをえないし、じゃあ最後はなんなんだ、っていうのもおさまらない。
『三人関係』の、誰もが肌が透明に見える主人公が綾子とであったときに彼女の肌だけは質感があると感じるさまは、吉行淳之介の『鳥獣蟲魚』の誰もが石膏色に見えたけれどあるとき人間の肌に見える女と出会うというのと同じだ。


10進分類:913.6
内容分類:純文学

時代背景:不明

受賞:『かかとを失くして』第34回群像新人文学賞(1991年)

漢字の難しさ ☆☆★
表現の難しさ ☆☆☆
文体の読みにくさ ☆☆☆
テーマの重さ ☆☆★
テーマの難解さ ☆☆☆

所要時間:1時間
『かかとをなくして』30分
『三人関係』30分

三人関係
三人関係多和田 葉子

講談社 1992-03
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      個人的には☆5つなのだが、慣れない人には難しいと感じることも。
オススメポイント:カトリーヌ・ドヌーブの美しさ。

旅をする裸の眼 (講談社文庫 た 74-2)
旅をする裸の眼 (講談社文庫 た 74-2)多和田 葉子

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「もし彼女がある朝起きてみて、実験用のねずみに変身していたら、その場ですぐに自殺してしまうだろう。私ならねずみとして殺されるまでそのまま生きていくだろうけれど。」(※1)
この一文が、多和田葉子の作品に一貫した姿勢を表している。
『旅をする裸の目』の主人公自体、ある朝ねずみに変身させられてそのまま生きているようなものだ。
主人公は旅をするはずが、誘拐されたり間違った電車に乗ったりして10年以上も旅をさせられている。ベトナムから東ベルリンへ、そして西ドイツのボーフム、やがてパリ。言葉もわからない中彼女が通い詰めるのはカトリーヌ・ドヌーブ(ドヌーヴ)が出演した映画だ。(※2)
彼女はカトリーヌ・ドヌーブを崇め、言葉の壁に意味を阻まれるが故にその美しさに一層打たれる。同じ映画を何度も何度も見る。解らないながらに理解できる映画の筋が、彼女を取り巻く物語の筋と呼応する。カトリーヌ・ドヌーブが吸血鬼ミリアムを演じた「ハンガー The Hunger」が掛かっているときには売血めいた臨床試験のアルバイトをし、売春婦になる「恋のモンマルトル ZigZig」が上映されているときには売春婦マリーに拾われる。そして「ダンサー・イン・ザ・ダーク Dancer In The Dark」のときには・・・。
自ら選んで行くのではなく物事に巻き込まれていくのはおなじみのパターンだが、あまりに知的で詩的であるために、受動的でありながら喪失されない確固とした自己が、ともかく魅力的である。
ねずみに変身させられてそのまま生きる。けれど明晰さは失わない。ずぶとさとはいわないだろうか。こだわりのなさ。体面のなさ。野性味を失わない賢さの深いユーモア。
この作品のように設定が特殊な作品では設定に溺れがちで、成功した例はよっぽどうまくはまったか、研究し尽くしたか、というのが常だが、多和田葉子は設定に頼らないというか、立てた設定を全く使わない。だから設定負けしないのだ。あえて推察すれば、主人公がベトナム人ということで、この作品の発端は中盤に登場する「インドシナ」からスタートしている気もする。それも他の苦手なフランス語ごしの感受とは違い、ストーリーが明確に把握され説明されていることから、思い返せばそうだった気がする、という感覚的なものであり、それを示唆する文章があるわけではない。このように読み手がその時々の心情を重ねさまざまな角度で何度も楽しめるのが芸術作品だろう。毎回のことながら、幾重にも感銘を受ける。

※1 原文では「彼女」は「研究者」。映画の特定の登場人物を指しているが、抜粋する文脈上一般名詞と誤解される可能性があるため変更。
※2 主人公はベトナム人の「女子高生」ということになっていて文庫の裏表紙にもそう書かれているが、その字面から受けた印象は物語の中にまったくなかった


作品中に取り上げられているカトリーヌ・ドヌーブ(ドヌーヴ)(Catherine Deneuve)出演映画を以下に記す(作品登場順)
 反撥 Repulsion (1965)
 恋のモンマルトル Zig Zig (1975)
 哀しみのトリスターナ Tristana (1970)
 ハンガー The Hunger (1983)
 インドシナ Indochine (1992)
 夜のめぐり逢い Drole d'endroit pour une rencontre (1988)
 昼顔 Belle de jour (1967)
 愛よもう一度 Si cetait a refaire (1976)
 夜の子供たち Les voleurs (1996)
 終電車 Le dernier metro (1980)
 ヴァンドーム広場 Place Vendome (1998)
 イースト/ウエスト 遙かなる祖国 Est - Ouest (1999)
 ダンサー・イン・ザ・ダーク Dancer In The Dark (2000)

旅をする裸の眼 (講談社文庫 た 74-2)
旅をする裸の眼 (講談社文庫 た 74-2)多和田 葉子

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オススメ対象:身に覚えのある人
オススメポイント:ふとぶととした性、生
4062639106犬婿入り
多和田 葉子

講談社 1998-10
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先日どこかのチャンネルで、プログラムの2,3分の隙間に埋め込まれた小さな番組を見かけた。それは虫たちが出す音を扱っていたが、私が目を引かれたのはトノサマバッタの交尾だった。大きなメスの背中に小さなオスが乗るというスタイルの交わりのさなかに、メスは延々と草を食んでいるのだった。不用意に触るとじりじりしみる傷になる、長細い草の葉を。シャクシャク、シャクシャク、と。
その性にひどくなつかしい思いがしたのだった。

多和田葉子はドイツ文学の研究者でもあり、翻訳家でもあり、詩人でもある。この作品では芥川賞も受賞した。彼女の唇からこぼれる言葉は単なる手段ではなく、ひと粒ひと粒おかしみのある生命を帯びて跳ね、あそびだす。まるでことだまの巫女だ。

性の話に戻ろう。
人の性的興奮は性そのものに誘発されることはそれほどなく、むしろ人が性を持っているという驚きや裏切りに誘発されることが多い。倒錯した性的嗜好に特化されたことではなく、それはただ単に「あの人があんな手をしている」ということでもよく「じぶんがこんなによこしまである」ことでもよい。営みそのものがタブーの作法なのだ。
けれども性は性として静かで太い地下水脈のようにこんこんと途切れることなく独自のサイクルで回っている。時折そのことを思い出す。そこは光の届かぬ世界。他者も自己もない抑圧も解放もないところ。

「犬婿入り」に描かれている性は、そういったたぐいのものなのだ。手続きなしのふとぶととした交わり。あっとおどろく懐かしさ。体験はないのに、なぜかある身に覚え。何をかなぐり捨てることも忘れる我もなくただ隣にある得体の知れぬ性。
そこがまた、巫女たるゆえんなのだ。

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