びぶりおふぃりあ  ブックレビューとオススメの海外ドラマ・映画のあらすじと感想。顔面血管腫(赤アザ)カバーメイク体験談

夫婦愛

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オススメ度:☆★★★★

赤い長靴 (文春文庫 え 10-1)赤い長靴 (文春文庫 え 10-1)
江國 香織

文藝春秋 2008-03-07
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結婚生活の、いやなところばかり思い出してしまった。
江國香織の「赤い長靴」を読んだからである。

攻撃的な小説って結構あって、被害妄想を掻き立てられてけんか腰になってしまうのはよくあることだ。例えばグレン・サヴァンの「僕の美しい人だから」。エリートサラリーマンと、色っぽいけど無教養な中年のおばさんの恋。これを読んだ時には、はなもちならない男に腹が立ってしかたなく、男性全体に対する憎しみがふつふつと沸き、2,3日そのへんにいる男たちを睨みつけた。
けれど、「赤い長靴」はそれほどでもない。つまらないからそんな気にもならないのだ。

とっても不思議な気持ちになったので、仕事から帰って来たパートナーに説明してみた。
「旦那さんは全然話を聞いてないわけ。お風呂にする?お食事にする?って訊くと、『うん』って回答するの」
「そりゃだめだね」
「そしてバナナを床に捨てるのよ」
「俺なら殴るよ」
「だけど最後はチュ―して終わりなのよ」
「気持ち悪いね」
このやりとりだけでひとつの小説の内容が全て伝達できたのが驚きである。
「どうして江國香織はそんな小説を書いたの?」
彼は訊いた。当然の問いである。私は困惑して、言った。
「それが、わからない。」

かつての江國香織だったら、妻は浮気をしたはずだ。
おとなしく従順で、男に(あるいはもっと他の何かに)守られた生活に安らぎをおぼえる女が、よその男をとらえどころなく魅惑する、というのが十八番だと思っていた。
ところがこの妻はパート先の若い男の子と話をしていても何もおっぱじめないのである。
江國香織を読んだらきっと得られると思っていた甘くておいしいお菓子の味が得られなかったので自信をなくして、Amazonで他の人の感想を読んでみることにした。
ファンが多いからか☆の平均値は少なくないのだが、「がっかりした」「つまらない」「何かのついでじゃないと読めない」「イライラする」「息苦しい」・・・という感想がけっこうあって、少しほっとした。よし。私の目が悪くなったわけじゃない。江國香織の問題だ。

夫が描ききれてないのが最大の欠点。
執拗に繰り返される「話を聞いていない夫と、くすくす笑うことでそれをやり過ごす妻」というモチーフの退屈さよりもなによりも。
以下引用するので、時間が許せばお付き合いいただきたい。

犬と猫の食べる草、というものを打っていた。小さな鉢植えで、いれいな緑色をしていた。
「買おう」
と逍三が言ったので、日和子は、
「なぜ?」
と尋ねた。
「うちには犬も猫もいないのに。私はその草が欲しくないのに」
逍三はきいていなかった。すでにそれを買っていた。
「欲しくないと言ったのよ」
もう一度言った。逍三はふり向き、にっこりして、
「はい」
と言って、鉢植え入りのビニール袋を差し出した。ききわけのない子供にお菓子を買い与えるみたいに。
「買おう」
次に逍三がそう言ったのは、頭に羽飾りをつけた人形がたの貯金箱だった。
「やめて。汚れているし、こわい顔だわ」
逍三はそれを買った。日和子は足を速め、品物を見ずに歩くことにした。何かを見ると逍三が買ってしまうからだ。逍三は、しかしさらに買い物をした。くまのアプリケのついた鍋つかみと、未使用の口紅だった。先を歩いていた日和子には止める間もなかったし、何を買っているのか見えもしなかった。
日和子のところまでやってきた逍三が、袋を渡してくれながら、
「もういいだろ」
と言ったとき、たぶん何かが壊れたのだ。それは火に似ていた。烈しい怒りの感情だったのだろうとあとになって思った。日和子はびっくりして口がきけず、次の瞬間には自分が泣き出したかと思った。日和子はくすくす笑っていた。くすくす笑いながら、どうしてこんなに悲しいのだろうと思っていた。ばかげている、と。
「私と別れても、逍ちゃんはきっと大丈夫ね」

同じ場面を逍三から語ったくだりは次のとおり
以下引用

「買おう」
立ち止まった妻の視線の先に、直径五センチほどの植木鉢があるのを見て、逍三は言った。緑色の草が鉢の直径いっぱいに、しゃわしゃわとたくさんまっすぐに生えている。
「なぜ?」
おどろいた顔で日和子が振り返った時、逍三はすでにポケットから財布を出していた。そのときには何もいわなかった日和子も、逍三が頭に羽飾りをつけた人形がたの貯金箱を、
「買おう」
と言ったときには、
「やめて」
とはっきりした口調で反対した。たかだか数百円の貯金箱で議論することもないと思えたので、逍三はそれを買った。日和子はかなしそうな顔をした。
日和子はすぐにかなしそうな顔をするのだ。逍三には、その理由は見当もつかない。せっかく来たのだし、何か買ったほうがいいと思えた。さらにいくつか買い物をすると、日和子がくすくす笑い始めた。くすくす笑って、
「私と別れても、逍ちゃんはきっと大丈夫ね」

以上

別れても云々はおいて、大丈夫じゃないだろう逍ちゃんは。

たぶんこの小説の描写どおりだったら、夫は脳に何らかの疾患・障害がある。それも「なんとか症候群」みたいな、無理やりつけて得意がってるような病名じゃなくて、シリアスでクリティカルな。
夫が、妻から見た虚像のまま一人称になっていて、一人の個人として生きていないのだ。
人は、ここに書かれているよりははるかに、他人と関係無しに自ずから存在しているはずなのだが、ここでの夫「逍ちゃん」は妻の妄想の具現化でしかない。だから読む人を苛立たせる。読み手は妻の物語でも夫の物語でも同じ妄想に付き合わされるのだ。
「電信柱みたいで、どんどん大きくなっていく」という夫の描写が、確信犯的に膨らむ妄想へのメタファーだというのは、おせっかいな読み込みすぎだろう。

残念ながら『号泣する準備はできていた』で直木賞を受賞したのは作家として幸せなことではないように思う。与えるべきではなかったのだ。「取れる作品」ではあったけれど、『号泣する』は江國香織の作品ではない。『号泣する』の方向に舵を切ったままでは彼女は迷走するだろう。そんなの目に見えてるのに。賞が一人の作家をダメにしてしまわないことを祈っている。


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関連タグ : 江國香織, 夫婦愛,

オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:初めてドストエフスキーを読む人に
オススメポイント:ヘンリー・ミラーは「永遠の夫」が最高の小説だ、と言った。

4102010076永遠の夫
ドストエフスキー 千種 堅

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頭のおかしくない人間って、いるのだろうか。
私が知り合った人は例外なくみんなどこかに問題をかかえていて、完全に正常な人なんかひとりもいなかった。「まともなひと」として頭に浮かぶのは「親しくなかったひと」の姿ばかりだ。
人間なんて誰だって、深く知れば知るほどみんなキチガイなのだ。
私はそんな風に思っている。
もちろん、誰よりも近く親しい自分自身は異常の最たるものであることは言うまでもない。

永遠の夫のトルソーツキイには「罪と罰」のズヴィドリガイロフと共通する部分がある。主人公へ接近してくる不気味な執着、若く美しい娘に対するむき出しの好色さ。これが読者にもむっと匂うほどにあつかましいのだ。
この距離感は、先に書いた深く知れば知るほどみんなキチガイという感覚に通じると私は思っている。ページを開くと、登場人物はすべての手続きを飛び越え瞬時に「深く知れば知るほど」に知ってしまった近しい人々のように心にどかどかとあがりこんでくる、現実の人間だって心や精神を病んでいない限りもうすこし取り澄まして”夢を見させて”くれるものだ。ドストエフスキーは、すごい。

首都ペテルブルクにある男がいる。名前はヴェリチャーニノフ。男は体調を崩しめんどうな訴訟に巻き込まれて気難しくなってはいるが、上流階級の人間で、その気になれば教養や社交センスを発揮することのできる魅力的な男だ。
そこに突然数年の空白を経て再会するのがトルソーツキイ。彼は執拗にヴェリチャーニノフに付きまとう。ヴェリチャーニノフは嫌悪を覚えながらも振り払いきることができない。なぜなら彼には後ろ暗い記憶があった。彼はかつてトルソーツキイ一家と近しく交際していた頃に、トルソーツキイの亡き妻と姦通していたのだ。

この小説の好ましいところは、「ある女を挟んだ二人の男の物語」ではなく、「二人の男の物語」であることだ。亡き妻・昔の愛人は強い影響力を持たず、主張しない。そこが真実味があると思うのだ。特に近年好まれるテーマとして、死んだ誰かの存在がある仲間達や人物の中で存在感を発揮し続け、その不在をめぐって不毛な物語が進行する、というものがあるけれど、私はそんなのはうそっぱちだと思う。趣味の悪いネクロフィリアを美辞麗句で飾っただけだ。
この二人の男は互いを信じられず、嫌悪し憎み、それでも互いの間のある種の愛に戸惑う。トルソーツキイの「永遠の夫」でいるしかない愚昧な無能さ、それは無邪気で素直に人を信じる純粋さでもある。
トルソーツキイが我が娘だと思い込んでいた少女が実はヴェリチャーニノフと妻との不義の子だったと知っていることを悟ったときのヴェリチャーニノフの想像の濃やかさ、優しさはそれを語っている。

やっぱり、死人のように青くなったんだろうな、きっと。”と、ふと、鏡に映った自分の顔を見て考えた。”きっと読んでから、目を閉じ、そして、あるいはこの手紙がただの白紙に変わってくれるのではないかと期待して、突然、また目を開いたに違いない……。きっと、三度くらいは、そんな試みを繰り返したのではないか……”

ここで全てが身近になる。物語の中にぽんと引き込まれ、狂人だと思っていたトルソーツキイの隣に突然座っている。
そして最後のページを閉じる頃、トルソーツキイは再び赤の他人のような顔をして汽車に飛び乗ってヴェリチャーニノフと別れる。けれど私はいつも心に呟く。「さようなら、愛すべきひと」

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