びぶりおふぃりあ  ブックレビューとオススメの海外ドラマ・映画のあらすじと感想。顔面血管腫(赤アザ)カバーメイク体験談

孤独

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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:読みやすく優しい語り口なのでどなたでも。
オススメな読み方:「第一の手記」は幼年時代であまりドラマティックではないが、重要なので斜め読みせずきちんと読み込む
人間失格 (集英社文庫)
人間失格 (集英社文庫)太宰 治

おすすめ平均
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川崎市立日本民家園、というところが小田急線向ヶ丘遊園から歩いた生田緑地の中にある。全国から集めた古民家を、地域ごとにまとめて展示してある。保存の状態は良く、園の規模も大きすぎず小さすぎずといったところ。緑の中を散策しながら見学できる。
以前多摩の方に住んでいた頃、でかけたことがある。この民家園と、同じく生田緑地内の岡本太郎美術館をぐるりと回った。
丁度ボランティアによる方言での民話が東北地方の民家の囲炉裏端で行われるというので、きいてみようと、その時間に合わせて園内を巡り、会場となった一軒に訪れた。
そこで三人の女性ボランティアが語った中に、瓜子姫と天邪鬼があった。瓜の中から生まれた瓜子姫はじいさまとばあさまの留守中に言いつけにそむいて天邪鬼という化け物を家に入れてしまい、取って代わられてしまう。「天邪鬼は瓜子姫をだまして着物を交換した」というくだりで、はたと、これは犯されているという暗喩なのだな、と気がついた。大人になって改めて聴いてみると、あからさまなことがあるものだなあ、と感心した。

同じことが太宰治の「人間失格」にもあった。
人が何を求め生きているのか理解できない主人公、葉蔵。彼は名家に生まれ頭もよく人々に好かれながらも人間全体に共感する喜びを味わえないがゆえに破滅していく。
人が怖い。人々に好かれる、そのことも彼にとっては恐怖であった。女にもてることを恥じ、嫌悪感に引きずられるようにもっと女を利用するような生き方をしてしまう。
この男が女をひきつけるわけは、人の心に同じ体温でまざりあってくるおっとりとした存在の色気だろう。
情死を試みて自分だけ生き残り、女だけ死んだ。その相手を語っている部分を引用する。

侘びしい。
自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟きのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いたことがないのを、奇怪とも不思議とも感じております。けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れることができるのでした。


そして、その女と過ごした一夜は、自分にとって唯一幸福な解放せられた夜だった、と語るのである。
からだの一寸くらいの周りを覆うことばでひとに伝えられない気持ちを、肌をあわせて混ぜ合わせること。これは男性には少なく、女性が求めることの多いエロスだ。それゆえ、求めても与えられることは少ない。女はそういうことに飢えているのである。現代の小説、ドラマその他にあらわされる男性像や身の回りにいる若い人を見ると、昨今は変化してそういったことを求める男性も増えてきているのかもしれないが、『人間失格』の舞台である昭和の始めには多くはなかっただろう。葉蔵がほっておかれないわけである。

さて、何が「民家園できいた瓜子姫」と同じなのか、である。
子供の頃から2回ほどは読んだことがある「人間失格」だが、今読んでみて、これまで気付かなかったあからさまな点があったのだ。
それは、葉蔵が幼児期に性的虐待を受けていた、ということである。それについて比較的あっさりと書かれているので性的虐待のトラウマについて知識がなかったこともあり見逃したのだろう。それに若かった私にとって肉欲は客観視できる対象ではなく、文学作品においても自分が興味があるか無いかで性的な示唆をキャッチするかしないかが決定してしまっていて、幼児に興味がないためにその情景を思い描くことをパスして読み過ごしてしまったのだろう。

その頃、既に自分は、女中や下男から、哀しい事を教えられ、犯されていました。


しかし、そのことを両親に言うことはできなかった。
人々は子どもの前で油断して、相手によって本音と建前を使い分けている姿を見せている。しかし早熟で頭の良かった葉蔵はそれに傷つき、混乱する。

互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っていることにすら気付いていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。
(中略)
自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、あるいは生き得る自身を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦を教えてはくれませんでした


そして、性的虐待を人に訴えることができなかった理由に、人間全体への疎外感を打ち明ける。

つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。



ある種の犯罪は、誰も知らないから起こる。ある種の犯罪、自分よりも弱い者への犯罪である。
嬰児殺ししかり、性的虐待しかり。
主人の息子に性的虐待を加える、もしそれがすぐに言いつけられたり、察せられてしまったりするなら、病気でないかぎりそんなことはしないだろう。
加害者の悪や異常だけで性的虐待を受ける子ども達ができるわけではなく、そこには子どもが訴えることができない、周りが察することができない、という環境の問題がある。
ここで考えたいのは、簡単に虐待の事実を述べている一文の的確さよりも、「父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があった」という父母の難解についてである。
『人間失格』の中で、父母が彼に見せたという難解さの説明は全くない。太宰治は他の小説でも幼児期の性的虐待を示唆しており、また、『人間失格』の中で述べられている情死の失敗は太宰治のカフェの女給で人妻の田部シメ子との心中未遂のことであったりと自伝的小説であると考えられていることから、幼年時代の性的虐待も事実だった可能性は高い。
私が一層強くそれを感じるのは、父母の難解さについて説明されていない不自然さである。
太宰治は父母との関係に足らないものを感じており、その不足が自分への女中下男からの性的虐待を許す環境となったと書かれている、と読み解く。

すると、ゆるゆるするすると、『人間失格』がほどかれていくのだ。
純真無垢で疑うことを知らないがゆえに下卑た商人に犯されてしまう妻ヨシ子。妻が犯された事実よりもその事件のせいで人を信じることができなくなったヨシ子が辛く苦悩する葉蔵。これは純真無垢なヨシ子に自分自身の幼年時代を重ねて見ていたがゆえだろう。
また、繰り返し語られる人から好かれることへの恐怖と羞恥はストレートに性的虐待のトラウマである。

最後にバーのマダムが言う

あのひとのお父さんが悪いのですよ


という言葉。この小説にお父さんが悪いところなんか、少しも描かれていないのである。父は確かに登場するが、普通の父親として描かれている。確かに葉蔵の不始末に腹を立てるが、それはもっともなことであり、この小説自体それを自然なこととして描いて、特段声高に異議を唱えたりはしていない。
では何が悪いのか。
父は何をすべきだったのか。
何から守ってやるべきだったのか。

『人間失格』。描かれていないことに哀しい事が隠されている気がしてならない。

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関連タグ : 太宰治, 自殺, 心中, 幼児虐待, 性的虐待, 疎外感, 孤独,

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オススメ対象:心理描写に食傷した人に

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純文学、と呼ばれるものに欠かせないと思っていたもの、心理描写や情緒の表現。その退屈を打ち破ったのが「百年の孤独」だった。
情緒と情熱は違うものだと教えてくれたのも。
渇いた情熱、怒涛のように押し寄せる出来事。それはドラマティックというのとも違う。ドラマにはその場がある律のもとに支配されているという前提があり、登場人物達は視点は違ってもひとつのドラマを目撃することになる。そして、「百年の孤独」の登場人物たちブエンディア一族の者たちは、互いのドラマに基本的にかかわりを持たないのだ。それが彼らの「孤独」だ。その孤独すら、私が想像する孤独とは違っている。私が想像する、一人きりの暮らし、愛されることも、愛することもない日常、そんなものとは。
ねちっこい心理描写がないために、登場人物への共感もまた、ない。その軽さを物語としてかろうじてつなぎとめるのは、ブエンディア一族の世代の中で繰り返される似たようなエピソード、似たような気質だ。
誰かに伝えるにはパラパラしすぎていて、思い返すにはクルクルしすぎていて、それなのに、読み返してみると、隠蔽された大虐殺や、あるとき風が吹いて突如土埃と瓦礫の廃墟となってしまう町の物語に自分がどれだけ影響を受けたか思い知らされた。それはその後私が繰り返し書こうとしたモチーフだった。そして再現したかったのは、大虐殺や廃墟ではなく、それらの出現の仕方のあっさりとあざやかな衝撃に他ならない。


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その女は町の有力者の囲われモノ、良識ある人々から眉をひそめられる存在だった。そんな彼女を同時に愛してしまった父子がいた。
かたや堅物の医師、かたや品行に問題のある中学生。
この物語は一見、実らなかった恋と消えることのない苦い思い出を描いているように見える。でもこれは、実は互いに恋しい人々の物語なのだ。互いを理解したいと望み、隙間なく抱きあいたいと願いつつ、けして満たされることのない人々。医師と女、女と少年、父と子、妻と夫、母と子、姉弟・・・彼らをすれ違わせるのは、タイミングや思惑の違いだろうか?否。彼らが互いを、そして自らを尊敬できなくなってしまっていることが、彼らの齟齬の核心だ。彼らの心の根底にあるのは人間性への絶望的な不信感、軽蔑なのだ。
20世紀は欲望の世紀だった。欲望はモラルから開放され、歓びは高らかに謳われ、あたかも人々のくびきは解き放たれたかに見えた。しかしそれは孤独の世紀でもあったのだ。優しく淋しさ慰める肉体の快楽はジョーカーで、つかの間不在を埋めてくれるけど、その空白は未だに本物を、ハートのエースを求めてる。そのことが、インモラルな社会的境遇にありながら不感症の女、というアンビバレンツによって浮き彫りにされている。
砂漠化は、進む一方だ。

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