びぶりおふぃりあ  ブックレビューとオススメの海外ドラマ・映画のあらすじと感想。顔面血管腫(赤アザ)カバーメイク体験談

福島第一原子力発電所

ここでは、「福島第一原子力発電所」 に関する記事を紹介しています。
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村上春樹氏のカタルーニャ国際賞授賞式でのスピーチ、Youtubeに上がっていたので全部聞いてみた。



 村上春樹カタルーニャ国際賞授賞式スピーチ1/4(Youtube)
 村上春樹カタルーニャ国際賞授賞式スピーチ2/4(Youtube)
 村上春樹カタルーニャ国際賞授賞式スピーチ3/4(Youtube)
 村上春樹カタルーニャ国際賞授賞式スピーチ4/4(Youtube)

良い内容とは思わない。
あまりにも全体的すぎて漫然としており、率直に言って、小学生の作文レベルのスピーチだった。
なによりも、どうしてもこのことについて言及しなければならない理由を感じることができなかった。

でもまあ、私としてはノルウェイの森以降の村上春樹氏に「何が何でもこれを言わねば死んでも死にきれぬ」気迫を感じたことがない。
自分の体験をもとにした小説を書ききったことで村上春樹氏の原動力は昇華され、いったん途絶えたのだと私は考えている。もちろんだからといって未来永劫、作家としての彼の価値が固定化されたわけではなく、今後円熟してもっと普遍的な原動力にリンクする可能性に期待して新刊を買っているのだが。

私がそのように評価していないにも関わらず彼の本はとても売れ続け受け入れら続けているのだから、単に個人的に波長が合わないのかもしれない。

外国で外国人向けにしたスピーチなのだから背景を含めどこから話せばいいのかという設定の問題があるし、すると無常感や桜などを持ちださなければならないのかもしれない。

でもそれだけではなくて、一番の違和感は、これが外国で外国人向けにしたスピーチのように聞こえるからではなく、日本人がしたスピーチのように聞こえないこと…もとい、日本に住んでいる人のスピーチに聞こえないことなのだ。

村上春樹氏は今どこで暮らしているのかなぁ…。

時事ネタは現場に聞き手である自分よりも近くいる人の発信じゃないとピンとこないかも。
イスラエルでの「壁と卵」はとても良いスピーチだったけど、それもイスラエル現地に住んでいる人からしたらやっぱり響かないものだったのかもしれないと今回思った。(雑文集には村上春樹氏が色々な場面で行ったスピーチが載っている)

さておき、【公】で出された発表の方が【私】で知られている真実よりも重いという日本のしきたりからいうと、村上春樹氏のような国際評価を受けた著名人が「問題が確かにそこに存在するのだ」と発言してくれるだけでも意味があるわけでありがたいことだと思う。(これについてはまた後日書きたい)

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「原発のウソ」の目次
まえがき
  起きてしまった過去は変えられないが、未来は変えられる
第一章 福島第一原発はこれからどうなるのか

奇妙な「楽観ムード」が広がっている/原子炉は本当に冷却できているのか?/「崩壊熱」による燃料棒の損傷/炉心は核燃料が解けるほどの高温になっていた/今後起こりうる最悪のシナリオ/チェルノブイリに続く、新たな「地球被曝」の危険性/悪化する作業員の被曝環境/水棺方式に疑問あり/「進むも地獄、退くも地獄」の膠着状態/再臨界は起きたのか?/政府と東京電力は、生データをすべて開示すべき/レベル7とはどういう事故なのか/「首都モスクワの中心部に建てても安全」と言われていた原発が大事故に/今も残る「放射能の墓場」/1000あまりの村々が廃墟に/「チェルノブイリの10分の1」と安心はできない


第二章 「放射能」とはどういうものか

放射能は知覚できない/キュリー夫人も「被曝」で亡くなった/放射線が人間のDNAを破壊する/JCO臨界事故の悲劇/細胞が再生されず、人間の身体が壊れて行く/放射線のエネルギーはものすごい/福島第一原発からどのような放射能が出ているか/骨をむしばむストロンチウム、「最凶の毒物」プルトニウム/すでに原爆80発分の放射能が拡散している


第三章 放射能汚染から身を守るには

「安全な被曝」は存在しない/解明されつつある低レベル被曝の危険性/風と雨が汚染を拡大する/被曝から身を守る方法/情報ルートを開拓する/「現実の汚染にあわせて」引き上げられた被曝限度量/子どもに20倍の被曝を受けさせてはならない/「放射能の墓場」を原発付近につくるしかない/汚染された農地の再生は可能か/若ければ若いほど死ぬ確率が高くなる/被害を福島の人たちだけに押し付けてはならない


第四章 原発の”常識”は非常識

原発が生み出した「死の灰」はヒロシマ原発の80万発分/国も電力会社も危険だということはよく分かっていた/電力会社が責任をとらないシステム/結局、事故の補償をするのは国民自身!?/原発を造れば造るほど儲かる電力会社/原発のコストは安くない/大量の二酸化炭素を出す原子力産業/JAROの裁定を無視して続けられた「エコ」CM/地球を温め続ける原発


第五章 原子力は「未来のエネルギー」か?

「資源枯渇の恐怖」が原発を推進してきた/石油より先にウランが枯渇する!?/核燃料サイクル計画は破綻している/破綻確実の高速増殖炉「もんじゅ」/プルサーマルはこうして始まった/「プルトニウム消費のために原発を造る」という悪循環


第六章 地震列島・日本に原発を建ててはいけない

地震地帯に原発を建てているのは日本だけ/「発電所の全所停電は絶対に起こらない」ということになっていた/多くの原発が非常用電源を配備できていない/「地震の巣」の真上に建つ浜岡原発/瀬戸内の自然を破壊する上関原発/原発100年分の「死の灰」をため込む六ヶ所再処理工場/再処理工場は放射能を「計画的」に放出する/放射能を薄めずにそのまま放出/「もんじゅ」で事故が起きたら即破局


第七章 原子力に未来はない

原子力時代は末期状態/先進国では原発離れが加速/日本の原発は「コピー製品」/「原子力後進国ニッポン」が原発を輸出する悲喜劇/原発を止めても困らない/伝慮気う消費のピークは真夏の数日間にすぎない/廃炉にしても大量に残る「負の遺産」/100万年の管理が必要な高レベル放射性廃棄物/「核のゴミ」は誰にも管理できない/何よりも必要なのはエネルギー消費を抑えること


3.11以来忙しく活動されている様子の小出裕章さんですが、新刊が出るようです。

他の著書のあとがきにも本を書くのは気が進まなくて編集者の方が今まで書いたものをまとめてくれて本ができました、と書いていたので、今回もそのようにして本にまとめられたのかなと思います。

小出裕章さんは女川原子力発電所建設の際に原発政策・産業の矛盾に気付いて以来40年間、原子力の研究者でありながら反原発の態度を貫いています。
小出裕章さんが、今中哲二さんらとともに京都大学原子炉研究所の熊取6人組と呼ばれ冷や飯を食わされてきた、というのは事実なのだと思いますが、みているとそれなりに支持している人がいる気配を感じます。

ところで、ネットTVやラジオに小出さんと共に今中さんがどうして出て来ないのかなって疑問に思っていたのですが、この記事「迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち 危険性を訴えたら、監視・尾行された」を読んだら、今中さんは、ちょっと独特の面白い方みたいですね。飯舘村の放射線量を測っている姿では杖をついていらっしゃいまして、少し気になりました。

小出裕章さんたちが熱心に反原発脱原発を訴えてきたのが、事故の前に原発を止めるには至らず、事故の現状をできるだけ正しく報道する、計測し記録する、という役割を果たすことになったことは、大変皮肉だと思いますし、彼ら自身も無念でしょうね。

ほら見たことか、言った通りだろ!と勝ち誇ることもできないのが原発事故の深刻なところです。

6月3日
「原発のウソ」、私はAmazonで予約して六月二日にとどきました。
目次に内容が詳しく書かれていたので目次を更新しました!ご参考までに…
最大の「原発のウソ」は、原発が停止したら電力が足らなくなるという話かな?
原発のウソは多すぎてしかもひどいことばかりなので、どれが一番のウソとは言えないのかもしれないけど。

福島第一原子力発電所危機についてのかなり新しい見解も含んでいるので、「原発のウソ」おすすめです。
地上波や全国紙であまり見かけることのない小出裕章さんの著書「原発のウソ」が書店の店頭に並んで非ネットユーザにも読まれるようになるかもしれませんね。

今後の原発情報合戦からも目が離せません。
輸入食品の放射能濃度の規制限度は370ベクレルです。
  (リンク)放射能暫定限度を超える輸入食品の発見について(第34報)
福島第一原子力発電所危機以降、2000ベクレルまでは安心・安全だというルールが作られました。

■食の安全について

TVでは福島県の物産展で買い物をしている人や福島県野菜をメニューに載せているレストランを美談のように扱い、
昔のひげそりのコマーシャルのように日ごとに人を変えて売り場でつかまえ、
「ええ、お店に出てるものは安全だと思ってます」
とコメントさせています。
あれはセリフが決まっているのか、そのセリフが出るまでインタビューしているのか、誘導で質問しているのか、
なんなんでしょう。
じゃあどうして私の行くスーパーで夜になっても○○産のレタスが売れ残っていたり(普通は夕方には売り切れる)、○○産の大根が山積になっていたりするのでしょうか。

政府やマスコミが報道している内容と、自分の感覚が著しくちがっているとき、市民は「何か危機的なことが起こっている」と感じてより一層守りに入ります……。



ところで、私は料理が大好きなんです。
どんな料理でもとにかく好きです。
料理は本当に簡単に誰かを幸せにできる、すばらしいこと、賜物です。

子供のころから料理をしてきましたし、食の安全にも関心を持ってきた私ですが、
シングルマザーで起業したという事情から、
経済的な面で家庭を支えることを最優先に考えてきました。

でも、ポスト・フクシマでは食の安全を確保することが経済的な豊かさよりも子どもにとって財産になる可能性が高いと考え、優先順位を変えました。

食事はでき得る限り手作りすること。
食材は安全が確信できる地域のものを使うこと。
加工品はできるだけ使わないこと。
産地の管理がしっかりしている、比較的ストイックな生協に加入すること。
今まで味の面から敬遠していたオージービーフも買うようになりました。
燃料のことを考えて買うのを控えていた遠い地域のものも買うようになりました。
この短い期間に、今まで大なり小なり理由があって積み上げてきた購買のパターンをずいぶんトレードオフしました。

客観的に考えて、大気や水、海洋や土壌といった環境の基礎を侵した汚染から発生した複合的な汚染の場合、どれだけ気をつけても汚染の影響を受けざるを得ません。

外食を100%やめては社会生活に支障をきたしますし、
子どもだってお友達といっしょに食事する機会を楽みたいだろうし、
市販のお菓子だって買いたい、買い食いだってしたい。

それをさせてあげるためにこそ、私が普段口に入るものをできる限り手作りして、安全を貯金するのが有効だと思います。

基準値内に汚染された食品を食べるようプレッシャーをかけるような風潮が政府やマスコミ主導で行われており、一般市民の中にもそれを支持する人たちがたくさんいるように感じます。

しかし、公害の被害者にならないことが一番良いことです。

被害者として国や東電などに勝訴するよりも、被害者にならないことがずっと良いことなのです。

被害者にならない道があるなら、勇気を持って賢くその道を歩むべきです。

公害の被害者にならないよう個人が気をつけること、これは国益でもあります。

生産者のために私たちができることは内部被ばくし、心中してあげることですか?

私はそうは思いません。

健康とは、感傷や同情などと引き換えになるような甘いものではありません。
それが誰かを救うというのならまだしも、逆でしょう。
内部被ばくによってこの先近い将来に健康被害が出れば、生産された地域が更にうとまれるだけなのです。

出荷停止の放射能汚染された作物を確信犯で出荷し販売して消費者が食べちゃった、という事件が後を絶たない(それすら氷山の一角に過ぎないと思います)ことが、なによりも「市場に出回っている食品は安全」ではないことを明白に示しています。

こうなってくると生産者は守ってあげるべきかよわい「被害者」などではなく「脅威」になってしまいます。

(残念だけれど生産者の職業倫理がこの程度なら、今後流通業者による産地偽装もあると思います。)

これは何より、今が他人に同情なんかするより自分の身を守らなければならないタフな局面なのだという現実を、私たちに突き付けているのです。

本当の解決策は、国が出荷停止の作物を買い上げることなのです。
そうすれば、生活や将来の追いつめられた生産者が健康に害があるのを承知で出荷停止の作物を市場にのせる、などといったことは起こらないのです。
国がそうしないのには、当然理由があるはずです。
後で保障としてお金を払う方が、市価で買い上げるよりも安上がりで済むロジックが何かしらあるのかもしれません。
事を過小評価している姿勢を続けることが訴訟で有利になるのかもしれません。言い方は悪いですが「しらをきる」ためには常に「知らなかったわからなかった」という姿勢を貫く必要があります。

他に選択肢があるのなら、疑わしい食品は買わないのが正解です。

デルモンテやカゴメが福島県産の農家と契約しない、とニュースになったときには安堵しました。
マスコミがあんまりにも福島県産を食べろと運動していて、生産者の側に立つ人々ばかりを報道するので、そのような中で消費者の側に立つことを初めて宣言してくれた大企業の存在が頼もしかったのです。

そもそも1企業の姿勢として、仕入先をお得意先より優先するなんて、そんな商売はこの世に存在できないでしょう。システム会社だってお客さんより協力会社を取るなんてことは非常識です。感情や信頼関係がどうあれ、立てるのはお客さんです。
そういう常識外れのことを美談に仕立て上げるTVは、いったい誰に向かって何を目指しているのでしょう。


■放射能汚染された食品を食べるようプレッシャーをかける一般の人々

さて、Twitterでも汚染地域の食べものを食わないのはノイローゼだ、みたいに言ったり、
ミネラルウォーターを買う老人はリテラシーが低い、などと言ったり、
○○の食品は安全なので食べましょう!と言ったりする人は、
どうも男の人が多いように思います。

女性にももちろんそちらサイドの人はいるのですが、(いっぱいいます。そして怖いです)
「私は買いました」
「私は食べてます」
「私は飲んでます」
という宣言が含まれる発言が多いんですよ。

男、女、とだけ分けるのもおかしい話ですけれども、その、文句を言っている男の人は、家族の食事を作る役目というのを経験したことのない、食への意識の低い方が多いような気がしています。

私の独断と偏見…
・奥さんやお母さんが作ってくれたものとか、お店で出されるもの、コンビニ弁当などの姿でしか食を捉えていないから、そこに含まれている栄養素をあたかも架空のもののように捉えている。
・食事を作っている人間が見て、地に足のついた意見を言ってこない。
・なんだかイライラした発言が多いように思う。(多分昔のドラマだったら「うるさーい!」ってちゃぶ台ひっくりかえしてる)


中にはスーパーでこういう人がこういうものを買ってたとか、
結構な高級住宅地のスーパーで人の買い物を覗き込んでどうこう言うような男の人も…。

うっ……

男のくせに、とか、女の腐ったような、とか、あまり言うべきじゃないと思いますけど、
男子が他人の買い物かごの中身に興味を持つのはいかがなものかと。
いつも通り、見たこともないみたいな顔しておいて欲しいです。


■食へのこだわりは自由

食へのこだわりは、ひとによってはたくさんあります。

私の食へのこだわりの一部(以前からの)
防かび剤を避けるため外国産のレモンを買わず国産レモンを買ってます。
中国産の野菜、食品は買っていません。
はちみつは大気汚染や放射能汚染の影響を受けやすいので厳選しています。
砂糖は基本的に精製されていないものを使っています。
もちろん栄養についての本を読んだり、食べ合わせの良い栄養素や吸収しやすい調理法なども気をつけたりして献立を考えています。
TVで言っていることを鵜呑みにするのではなく、いろいろな角度から調べたり、人にも相談をしたり話し合ったりして、健康に良い食事について考えています

etc.



こうすると、エンゲル係数は当然高くなります。
ワイドショーなどで節約アドバイザーという方が家計簿をチェックして、何人家族なのに何万円の食費はかかりすぎだ、などとおっしゃっていますが、価格を抑えると当然、質の良い食材は使えなくなると思います。

でも、医食同源ですからそれだけの価値があると考えて、そういう選択をしています。

もちろんそうやって家族の健康に気を使っても、誰も気付かず誰も誉めてくれませんでした。
美味しい、ということに比べて評価されにくい分野です。
最初の夫は3時間かけて作ったものも15分で食べてましたしね…

主婦の仕事なんてそんなもんです。

だけどそれが自分や家族の健康のため、主婦の務めだと信念を持って、食に関する知識をコツコツ集めて、一生懸命やってる人もいるんです。

…とまあそんな風に食に気を使って、数多くのルールの中で食材を選んで食事を作ってきたけれど、
今まで誰もそのことについて文句を言ったことなんか無かったですよ!

防かび剤は合法だしスーパーに並んでいるんだから安全なんだ、カルフォルニア産じゃなくて高知産のレモンを買うのは風評被害だ!リテラシーが低い!防かび剤とワックスのたっぷり掛かったレモンの皮をすりおろしてチーズケーキに入れて食え!!
なんて言う人、一人もいませんでしたよね??

やっぱり、今の、汚染地域のものを食え食えって言う状況、異常じゃないですか?
原子力安全神話が終わった日…
5月6日、管直人首相が、浜岡原子力発電所を停止するよう中部電力に要請しました。

日本国家は、「原子力発電所は絶対に安全だ」とずっと言ってきました。
原発村と呼ばれる電力業界や関係機関、そして学者といった人々にお墨付きを与え、合理的な反対意見を全面的に否定し、冷笑をあびせて、資本主義の敵であるかのように貶めて笑い者にしてきたのです。

ところがこの国の宰相が一見は安定稼働中の原子力発電所について、「停めろ」と言った。

安全策を講じてから再開というような可能性があるようなことを言っているけれども、
浜岡原子力発電所は原発反対運動のいわば象徴です。
東海大地震で被災する可能性が高く、活断層の真上に建っている、危険だ危険だと反対運動が一番さかんな原子力発電所です。
その浜岡原子力発電所を停めよということはすなわち、もちろんそれだけでは済まない、甚大な影響がある、ということは、管直人さんにはわかっていると思います。福島第一原発が危機的な状況に陥って以来煮え切らなかった腹のうちで、ずっとそのことを考え続けてきたのかもしれない、私はそう思います。

これは管首相の意思や意図を超えた、もっとどうにもならない圧倒的な流れ、時代が動いたということです。

20年ほど前、ソビエト連邦が倒れました。

チェルノブイリ原子力発電所の事故のあと、事故が隠蔽されていたことに対する国際社会の非難の中、ゴルバチョフ大統領は情報公開政策を本格化しました。グラスノスチです。過ちを認め、改善を図ったのです。

けれども結果として、グラスノスチは共産党を弱体化させ、ソビエト連邦を崩壊させる大きな原動力となりました。

共産党のソビエト連邦運営の経済的な行き詰まりや西側諸国との冷戦など、問題があったとはいえ、それでもチェルノブイリ原子力発電所の事故が、ひとつの巨大な国家を崩壊させるほどの力を持っていたことは確かです。

福島の原子力発電所の事故が日本の社会構造にどこまで影響をしていくのかは、計り知れません。

もちろんソ連のような多数の国で構成されるようななりたちの国家ではないし、
国際社会がその崩壊を待ち望んでいるような国家では(おそらく)ないので、
日本という国がばらばらになる、というようなことは当てはまりませんが、
国民からも国際社会からも基本的な信頼を失う出来事であったことは確かです。

原子力発電というものに関する政策は、今までとても偏っており、推進一辺倒で、国民にその是非を問うという機会がありませんでしたし、反対運動にも揺るぎなかったのです。
ところが管首相の要請で浜岡原発を停めろということになった。
法的な拘束力がないと言っても、この福島原子力発電所危機のもと、中部電力が断りきることは不可能でしょう。

国の後ろ盾がなければ、原発推進派の言うことに賛成してきた人々は手のひらを返すでしょう。

そうなれば、大きな利権の構造が変わるかもしれません。
もちろんなくなりはせず、新しいものが始まるだけだというところが肝心です。
私たち小市民はどこまでいってもその恩恵にあずかることはできない、それが利権というものですが、個々人がその変化の流れに翻弄されないようにしたいですね。

簡単に言えば、職を失わないように、失う前に転身できるように、お金を大切に、といったことしかできないのですが、でもそれが生活の大部分です。
自分や家族の職業や生活が電力の変化によってどう影響をうけるか(クーラーを何℃あげるというレベルではなくて)を良く考えないといけませんね。
社会の仕組み(の一部)が変わる時には、積極的に新しいことに耳目を開いてチャンスをつかんでいくほうが、生き延びられるんじゃないかな、と思います。始まったばかりってほぼタダでつかめるビジネスチャンスがあると思うので(でも騙されたりしないでくださいね)、がんばりましょう♪

ずる賢くタフに、乗り切って行きたいですね。




それにしても、原発安全神話が終わったのは3月11日だと思いますが、終わりを認めるのには時間がかかるものですね…この失われた56日について、改めて考えてみたいと思います。
浜岡原子力発電所を停止する、という発表は多くの人々にとって予期しないものでした。

私は預言者ではないので(最近原発に関する預言者を名乗る人がネット上にいると聞きますが)全く予想はしていませんでしたが、何か事態が大きく動く予兆はありました。

推進派だった学者の方たちが連名で反省文を出したり(原発推進学者が次々懺悔 「国民に深く陳謝する」J-castニュース)、同じく推進派であった小佐古元参事官が校庭の許容放射線量20msvに抗議をして辞任したり(小佐古・内閣官房参与の辞任表明文要旨)、といった、今まででは考えられないようなことが起こったことです。

私の考えでは、学者という人たちはその専門とする学問において、嘘を言ったり、真実を黙っていたりするのは割と平気な人が多いと思います。

一般人は学者と言えばもちろん自分達よりもその学問について良く知っているわけだから、何か意見を述べればなるほどと思って自分達の考えよりも正しいだろうと思うけれど、決してそうではありません。

まずひとつに、「このままでいいのか、いけないのか」という問いに対する答えというのは世間智がなければ出せないということ。学問の知識では解決しない、個々人で判断しなければならない事柄まで学者にゆだねるのはそもそも適任ではないということです。

次に、職業倫理の問題があります。

学者というのは間違いを言っても職を失うということはほとんどありません。
科学とは最先端では仮説と実証の繰り返しで、もちろん間違っていることもある。でも間違っていたことが何年か後に判明したからといってその学者がだめだということにはならない。間違いの中にも一定の成果があることもあるし、また何年か経ったら正しかったと言われるかもしれない。学者の世界はそういうものだと思いますし、きっとそうあらねばならぬのでしょう。

しかし、人体への放射線の影響など、まだ十分に解き明かされてはおらず有力な説として害があるという意見もある事柄について、安全なのだ、と宣伝したり、原子力発電所が絶対に事故を起こさない、と言い張ったりとか、そういったことをどうして良心の呵責なしにできるのか、と言いますと、これもあくまで私の考えですが、そこに彼らの職業倫理というものがあるのです。

つまり、学者とはその学問に奉じた者であり、その学問が今後も打ち捨てられることなく発展していくことに寄与することこそが彼らの職業倫理なのです。
だからどんなトンデモ説を唱えても、非人道的で非常識であっても、そこさえ踏み外さなければその業界で大きなポジションに安穏としていることができるのです。

簡単に言えば、その専門とする学問を専攻する学生が大勢いたり、研究予算が沢山ついたり、商業利用がたくさんされて世の中に受け容れられたり、世界の中でその学問をリードするアドバンテージを保持したり、といったことが、学問の発展に寄与したということになります。
一般人はそこを勘違いしてしまって、学者は学問が探究する「真理」を職業倫理として持っているはずだと思ってしまう、そこに大きなズレがあると思います。

ですから、たとえば消防士が放火をする、警官が万引きをする、という場合、それ以外の職についている人よりも罪が深く罪を償っても復職は100%不可能と考えられますが、学者が嘘を言っても学者で居続けることができます。

いわゆる御用学者というレッテルだけでは、なぜ彼らが間違ったことを平気で言うのか、という謎は解けないと思います。電力会社からのお金に目がくらんだ、悪魔に魂を売った、というのでは現実味があまりありません。
悪人ではなく、その人たちなりの正義に殉じているから手に負えないのです。

その人たちが自分達の誤りを認めるというのは、もう事態がそこまで窮まっているということです。
自分達が何をしたところで自分達の学問(原子力)はもうダメだ、むしろあがけば悪くなる一方だ、というところまで行ったのです。

残念なのは、多くの人々が被ばくする前、間に合う時点でこの判断ができなかったということです。
これは学者だけの責任ではなく、マスコミの責任は深刻だと思います。

本来であれば先に述べたような特徴を持つ学者からは専門的な事柄だけを聞き、選択肢を判断して発信するのがジャーナリズムではないでしょうか。
それを、「どうせよ」というところまで学者・他人に言わせようとするふがいなさ、政府やスポンサーからのプレッシャーがいくらあったにせよ、存在価値を問いただされるべきではないでしょうか。
■ポスト・フクシマという時代

気がついていますか?

インターネット上のいろんなサイトに掲載されている不動産のバナー広告のこと。

新築マンションの広告は、地域でターゲティングするのが普通です。
東京に住んでいて名古屋の物件を買ったり、北海道の物件を買ったりというのは一般的ではありません、やはり近くのものを買います。引っ越すとしてもいったんは賃貸などで仮住まいをしながら良い物件を足を運んで探すというのが考えやすい購買行動です。
ですから広告業者はインターネットへのアクセスポイントからエリアを特定し、そのホームページを見ている人のエリアに適した広告を表示する、そういう仕組みを持っていてそれで商売をしています。

でも1ヶ月ほど前からでしょうか。東京に住んでいる私に、
大阪梅田の新築タワーマンションのバナー広告が表示されるようになりました。

以前は豊洲のマンションの広告が表示されていたような場所に…

福島第一原子力発電所危機、それは厳しい時代の幕開けとなるでしょう。

東京の土地の価値は下がり、日本の国債の価値は下がり、
生活や健康への不安は人々をすっぽり覆い晴れる気配がない
政府やマスコミへの不信感は絶望へと変わり、
未来という虚像は音もなく崩れ去りました。

もうこの世界はフクシマ以降の世界なのです。
3・11のスイッチでフクシマ以前の世界とはパラレルな世界に移行してしまい、もう二度と元には戻れない、
そういう世界、これがポスト・フクシマです。

この新たな世界の中で、
人間には二つの選択肢しかありません。
失われた世界にしがみついて最終的に不安に負けるか、
それともタフに、ずる賢くなるのか。

できるだけすばやく適応して子どもを守り、道を切り開き、照らし出してやらなければなりません。
この世界のなかでどうやって育ちどうやって生きれば幸せになれるのかという道を。


私がこの福島第一原子力発電所危機で取った行動の一部を書きます

3月11日夜
       だしを昆布だしに変える
      (以降ヨウ素が欠乏しない(過剰でもない)食事を手作り)

3月15日朝
       自分の子どもを園庭で遊ばせないよう保育園に依頼
       この日の朝以降、私も子どもも外出時にマスクを着用

3月16日
       子どもの保育園を休ませ、今後の方針を考える時間を持った
       原子炉がある程度破損し、放射性物質が漏れ出たことを
       15日・16日のモニタリングデータから知る
       以降汚染された地域の食物は購入しない
       室内の空気の流れを一本化。吸入口に濡れタオル

3月17日
       雨が降って水道水が汚染されるのに備え、水を貯める等
       大切な鉢植えはシャワー(水)で洗って表面の土を削ってから
       室内に入れる

3月23日
       雨が降って以降保育園の給食の代りに弁当とペットボトルの水を
       持参
       雨が降り地表に放射性物質が堆積したと判断し、子どもはおんぶ

4月18日
       モニタリングデータから何度かの雨でアスファルトが洗われた
       ことや、
       大量の放射性物質漏れの際のヨウ素131が崩壊して少なく
       なったことを推察し、子どもに地面を歩くことを許可



どうでしょう。
割と気をつけているほうなのではないでしょうか。
これ以上に気をつけるとなると疎開することになる、というレベルかと思います。

東京においてこういった行動が必要だったかどうか…、
それについては私は、
「答えを出すのは学者さんや知識人やマスコミや政府ではなく、もちろん世論でもなく、時間だろう」
と考えています。

非常時には周りがどうするかではなく、平時に自分が決めていたことを自分の判断で適宜行う。
政府やマスコミが防護策へと誘導せず、むしろ阻害しているのを見ながら、絶対にそれに流されないという信念の戦いでもありました。

「漏れてない」「安全だ」「ただちに影響はない」
と言われ、あたかも皆がそれを信じ従っているかのように思えるときも、
「だったら私はもっとひどいことが起こったときの訓練だと思ってやり通そう」
と自分に言い聞かせていました。
モニタリングデータを見ると、安全だと言い切る合理的な理由は見つけられなかったし、東京でも地表は相当汚れているように見えました。
それに、もしやるなら今やるべきで、一ヶ月後にやっても効果がない、やるなら今だと考えたんです。

だいたい、どれもそんなに苦になることじゃないですから。

ただやっぱり、周囲の大多数の人と違う行動をするわけですから、そこに困難はあります。
東京でひとり暮らしなら周囲の人は関係なく暮らすこともできますが、子育て中は周囲の人に受け容れていただくことが子どもの健全につながりますので、気を使います。
ここでは福島第一原発危機への対策をしながら、子どものいる家庭で感じた心理的な困難を考えてみたいと思います。

■周囲の人と行動を別にする場合の大人の態度

マスクについては、花粉症ですか?と聞かれることが多かったですね。
そうです、と答えていました。

お弁当を作って行っているのはうちの娘だけですし
(水を持参している子は他にもいるようです)
先生方や父兄には放射能を嫌ってのマスクやお弁当なのだなということは
当然知られているとはおもいます。

放射性物質漏れや人体への影響についての見解が政府と異なっているんだよ
(枝野さんは長いこと『漏れてない』と言い張ってましたので)
ということを公言するよりも、
「父から遺伝した花粉症です」
と言いきり、時期が長引いたら
「ひのきと杉とダブルなんですよ」
とニッコリ。
大人の嘘をついたほうが、ばればれであっても相手も付き合いやすいんですよね。


■周囲の人と行動を別にさせられる小さい子どもへの説明

2歳9ヶ月の娘は、同じ年頃のクラスの友達が外遊びしている時間(一日に1時間くらいだと思います)に
自分だけが一歳年下の子どもたちと室内で遊ばなければならないことに
当然疑問を持ちました。

「どうして赤ちゃんといっしょに遊ぶの?」

とある日娘が聞いてきました。

どうやら、自分は赤ちゃんなのかしら…二歳児クラス失格なの?と思ったようです。

まだ子供にはわからない部分もあると思いますが、説明しました。

・今ゲンパツのせいで地面が汚れているとお母さんは考えている
・部屋の中で一歳児さん達と遊んでいてくれればお母さんは安心して仕事ができる
・これはずっとじゃない、そのうちまた遊べる

と言ったら、「わかった」と言って、それからは何も言わずに室内で遊んでいます。

(うちの娘は特に外遊びが好きということはなくもともと嫌がることも多かったのです。)


お弁当に関しては好物を入れるよう気をつけていることが実ったのか、


「給食よりもお弁当のほうがいい」

と言っています。

おやつも持たせているのですが、
忙しいときにはバナナを半分とかサツマイモを茹でたものなどを重宝して手抜きですが、
娘といっしょにお菓子を作ってそれを持たせたりもしています。

娘は自慢に思っているようです。

マスクは(事態が悪化しない限り)一番気をつけなければいけない時期は過ぎたと思いますし
外遊びはどの時点かで見極めることになると思いますが、
お弁当やできるだけ外食や加工食品を避ける食生活は、もうずっと続ける覚悟でいます。

■長期的な課題

他の子どもも、口に入れるものや外遊びについて配慮が必要なのではないか、という意味のことを3月の時点で保育園の園長先生に言ってみましたが、
「役所の保育課と話し合った結果、行政からの指導がないと全体にたいしての対応はできないけれど、親御さんから要望があれば個別に対応するということになった」
とおっしゃっていました。

親の考えで子どもに他の子と違うことをさせることが、時には必要になります。
でも、異分子であることは人格形成に大きな影響を与えるのは確かです。
私がそうだったように。
経験者としてそれが悪いとは断言できません。良く転べば良い面もあります。
が、軽く考えて良い問題でないのは確かです。

私は今まで、学校や、住む場所、付き合う人々などを、好き嫌いや利便性、なりゆきといったもので選んできました。

けれどもまずは親である私が、自分に合った環境、自分にあった社会を慎重に選ばなければならないな、と思いました。
そんなユートピアは用意されていないでしょうが、子育てに役立つ規模の小さな家庭的な人間関係ならば自分で作り出せるでしょう。

こうして見てみると、そうですね、東日本大震災と福島第一原発危機は私にとって、自分が人とは違う異質な存在なのだ、ということを思い出させる重大な事件でした。
それだけでなく、異分子であることの危険、不気味な圧力を感じる機会でもありました。

これは私が変わっている、人の輪になじめない、と済まされることではないのかもしれません。
だれしもが世間との違和感を感じながら手に入る情報に不安を感じ身の安全が十分でないと感じている
そんな孤独の中にいるのかもしれません。

孤独の中から言葉を発する、それは勇気のいることです。でも、孤独の中にこそ言葉が必要であることを知っています。


放射能で首都圏消滅―誰も知らない震災対策放射能で首都圏消滅―誰も知らない震災対策
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「放射能で首都圏消滅 -誰も知らない震災対策」、私は震災後に読んだのですが、私が日頃から「いざとなったらこうしよう」と思っていたことと一致しましたので掲載しました。(
浜岡原発をターゲットにした本ですが、福島第一原子力発電所危機の報道で使われているような図も載っていますし、首都圏からの距離が200キロと福島第一原子力発電所と同じ距離(の反対側)にあり、福島に置き変えて読むことができます。
イラストもたくさんあり、ひとつのトピックが見開き2ページに収められ、読みものというよりは参考書といったつくりです。原子力発電所の問題点を広くあつかった、文字も大きくさっと読めるわかりやすい本です。

25年前のチェルノブイリ原発事故が起こったとき、私は中学生でした。おぞましい大事件でした。
その3年後、高校の文化祭で図書委員会の展示でチェルノブイリ原発事故を調べ発表する機会があり、当時出ていた本を読みあさりました。

これが私にとっての原子力発電との出会いです。

十代の子どもにとって世界は単純です。

どんな悪いことが起こっても、「これからはどんどん良い世の中になる」と希望を持って乗り越えていこうとします。
この美しい希望は、いろんな世代の若者が経験した共通項です。
ただその時々の「悪いこと」が世代ごとに違っているだけで。
私にとって、それはチェルノブイリだったのです、偶然にも。

でも、世の中は決して良くはなりませんでした。
これもどの世代にも同じ、繰り返されてきた失望なのでしょう。

原子力発電はどんどん推進されていきましたし、チェルノブイリショックは忘れられ風化していきました。
原発に反対している人々は「アレ」な人、というレッテルを貼られて弱体・縮小化していきました。

「アレ」な人、というレッテルは非常に有効で、ナメクジに塩を振るのと同じように強力です。

こういった世間の姿を目の当たりにするは本当にショックなできごとでした。
チェルノブイリ原発事故そのもののショックとは比べ物にならないほど、私の社会観に影響を与えました。
(世界観は希望の光がささない暗闇で構築されるのです)
世の中というものの動きは、私の考えや希望とは違った方向のものだ、そしてそこには合理性すらない、ということを知ったのです。

以上がチェルノブイリ世代の衝撃・希望・失望だ、と私は考えています。

原子力政策が真実に民主的に選択されたものなのかは置いておいて、

多数決で決められたことに異義があり、かつその決定が自分の生命や主義を脅かすと考える場合、一個人はどのように振舞うべきなのか

これは私の大きなテーマでした。今もって。

消費税に反対、というケースなら、皆が決めたならじゃあ仕方ないから払おうとなりますが、原子力発電所に反対、というケースはどうすればいいのでしょうか。反対運動に実効性がないと知っているとしたら?

そんな時、個人がまずできるのはずる賢くなることかもしれない、と私は考えているのです。
世間的にはある程度合わせつつ、自分の備えをきちんとする。

それができるためには、いろんな事に自分なりの考えを持つ必要があります。政治に対して、科学に対して、社会に対して、人生に対して、自分なりの答えを持っていなければならない。

でも今の世の中はそういった「考え」をゆっくり育くむのに必要な精神的な「苦しみ」を嫌い、
「苦しみ」を排除したり忘れたりするための手段ばかりが膨大に生み出され、
果ては溢れる情報によって「考え」を自ら持つ必要がないかのような誤解が蔓延している。


私が伝えたいことは、そこに繋がっています。
それについて言えることは、ずっと言い続けて行きたい。
今も進行中の福島第一原子力発電所危機で「大丈夫、安全」と言い張っている方がずっと言っているのは、
「チェルノブイリよりもマシなんだ」
という比較です。
IAEAの基準でチェルノブイリと同等のレベル7とされてからも、「チェルノブイリほどじゃない」「レベル7でも軽いほうのレベル7だ」という言葉を喧しく耳にしました。

でもどうしてチェルノブイリよりマシなんでしょうね?
今回はそれについて考えると共に、福島第一原子力発電所危機のはらむ危険について考えてみたいと思います。

漏出している放射性物質の量がチェルノブイリよりも現時点で少ないからでしょうか?
そういう風に説明していますが、それだけでは片付かないような気がします。

ソ連という国家を資本主義国家から見くだした差別感情、冷戦の名残のあまり根拠のない優越感でそう思い込んでいるだけ…という部分が大きいんじゃないかと思うんです。

チェルノブイリは非常に衝撃的な事故でした。
25年前中学生だった私にとっては人生に影響を与えた事件のひとつです。

チェルノブイリを経てもなお原子力発電を推進し続けるには、何かチェルノブイリを片付けるような理屈が必要です。
その理屈としてはまず、チェルノブイリで使用されていた原子炉の構造が日本の原子炉の構造と異なり、格納容器が無かったことがあげられます。
(でも格納容器は万能万全ではなかったわけですが)

それに加えて、無意識にもこういったことを思っていなかったでしょうか。

「ソ連という国は人権の意識が低く隠ぺい体質で、現場の人材の能力も低く管理体制もなっておらず、そのためああいったみっともない大事件を引き起こしたのだ、ああ恐ろしい、日本はそんなレベルの低い国と同じであるわけがないし、誰もそんな風に思うわけがない(私たちが安全だと言い張って落ち着いていれば…)」

あのチェルノブイリと同じだなんて、プライドが許さないのです。

これはとても危険な奢りだと思います。

私自身が心のどこかで、そんな風に思っていたのかもしれません。
最近TVを見ていて、そう思いました。

それはウクライナでチェルノブイリ被害者のデモが行われたというTV報道でした。
「福島についてどう思うか」
と訊ねられた被害者のおばさん(当時は若かったのでしょう)が、涙ながらに
「福島にいますぐ行って何かしてあげたいわ」
と言っていました。

私は彼女の言葉を聞いて、心臓を貫かれるような衝撃を受けました。

彼女の共感と同情が私の偏見を融かし、当たり前のことに気付かせたのです。
彼らと私たちに違いなどないということです。
話す言葉が違うとか(違うだけでなく、英語のように学校でなら)、遠くに住んでいるとか、肌や髪や目の色が違うとか、そんな違いはささいなことであり、彼らも私たちも同じくミスをする、ただの人間なのです。
彼らも、私たちも、同じ人間で、そして同じように事故が起きたのです。
25年も経って、私はやっとそんなことがわかったのです。

確かに国民一人一人ではなく国として、ソ連はおそろしい国家だったかもしれません。
今もロシアにそれは残っているのでしょう。

でもおそろしい国家だからこそできたようなことがたくさんあります。
多数の死者を出しても一般人や軍隊を投入し力技でねじ伏せるように事態を収束させたこと
首都が汚染されないように爆弾で雨を降らせた結果ベラルーシが汚染されたとも言われていること…

そういった、何かを活かすために何かを犠牲にするということが、日本にできると思いますか?
良い意味でも悪い意味でも、難しいと思います。

そんな選択をするくらいなら、心中しちゃおうよ、というのが日本です。
それは第二次世界大戦の歴史が語っているし、今回のことでも肌で感じました。

さて、実際に作業にあたったり指揮したりしている方ではなく一般の日本国民が、チェルノブイリよりも軽いのだと思うことにどのようなリスクが潜んでいるのでしょうか。
福島第一原子力発電所危機は現在も進行中の事故で、今後更に深刻化する可能性も否めず、また状態が悪化しなかったとしても長期化することにより被害が拡大していく可能性があるという状況です。
軽いと思うということは当然、油断をするわけですから、チェルノブイリの教訓を活かすチャンスを失うということになります。

5年、10年経ったときに、チェルノブイリがあったのになぜ?と思わないために、油断せずにチェルノブイリを見直してみたいと思います。

4月1日北茨城市沖で獲られたコウナゴから4080ベクレルの放射性ヨウ素が検出されたと、同4日報道がありました。

【毎日新聞】東日本大震災:茨城産コウナゴ、セシウムも検出 漁業者、苦悩深く


以降、漁も出荷も止まっているわけですが、

魚を獲ったほうがいいのになぁと、歯がゆくおもっています。

コウナゴも、海藻も、貝も、どんどん獲って、汚染されているものを集めて核廃棄物として捨てればいいと思います。

漁によって被ばくの恐れがない程度の海洋汚染地域、という前提での提案ですが、

福島でも茨城でも放射性物質に汚染された魚をどんどん獲り、国が通常の相場の価格で買い上げて、放射性廃棄物としてまとめて処理すればいいと思います。

そしたらその分、海がきれいになるじゃないですか。

魚には気の毒だけれど、放射能除去を自然が手伝ってくれるんだから、利用しない手はないでしょう。

海はきれいになるし、漁業者の方は(いつもとは違うけれど)仕事ができるし、身を持って海の状態がわかり、いずれ時期がきたら「絶対安全なのだ」ということを実感できるわけだから、結構なことではないでしょうか。

漁業者の方に補償はしなければならないわけで、ただお金を払うというんじゃなくて、仕事をしてもらって対価を支払う方が、国に取っても得だし、漁業者の人にとってもただ将来の不安を抱えて仕事ができずにいるよりも、意味のあることができるほうがやりがいがあって良いと思うのですが、どうでしょうか。


・魚は普段通り獲る
・魚は汚染の有無にかかわらず国が妥当な対価を支払う
・できるだけ手早く放射能を測定し、汚染されていない魚は放し、食物連鎖に戻す
・汚染されている魚はまとめて核廃棄物として処理する。
・汚染されている魚がいた海域(海流)の魚はいつもよりも多く漁を行う
・海水のサンプルも採取して、こまめに放射性物質の量を測る。
・効果が少しでも期待できるなら沿岸への活性炭の投入などを行う
・放射性物質を吸着・吸収してくれるような海藻を収穫し、魚同様に検査の上選別、また新たに植える。
・貝など浅い場所に住んで移動が少ないような海の生物を収穫し、魚同様に検査の上選別、また新たに入れる。

こうして集めたデータをWebの地図やグラフで可視化し、海洋の放射能汚染がどのように広がったのかを時系列で誰でも参照できるようにし、どのように浄化されたのかも細かくオープンにし、黒潮に乗ってどういう魚が北上してくるのかとか、どんな魚が何を食べているのか等も説明して、それが合理的に納得の行くものであれば、いずれその地域の魚を食べる人は表れるでしょう。


放射性物質に汚染された魚を海にそのまま放っておいたら、コウナゴなんて大きい魚のえさなんだから、あっというまに食物連鎖で大きな魚に回ってしまいますよね。

ヨウ素131なら半減期が短いけれど、セシウムは半減期が長いわけだから、この先何十年もの間、ひょっこり問題が出てくる可能性もあるわけですから、その長い年月、影響を受けた海域が漁場として二流以下に貶められてしまうわけです。

セシウムはチェルノブイリではヨウ素に比べてあまり健康被害として問題になりませんでしたが、海洋汚染によって魚が汚染された場合のセシウムの影響は未知数です。(ヨウ素が甲状腺に蓄積されるように、セシウムは筋肉に蓄積されます)

海洋学のご専門の学者さんや環境衛生の学者さん、放射線学の学者さんが「だいじょうぶ」「安全」「いますぐどうということはないけど長期的に調査が必要」とTV等でおっしゃっています。先生方は実務家ではありませんのでそういったご意見かもしれませんが、実際には今すぐやらなきゃ意味がないことというのがいっぱいありますよね。

海洋汚染については学者さんが参考にするような過去の事例がないし、今の状況がいわばこれから世界の放射能汚染の貴重なデータとなっていく、進行中の『事例』だと思います。

(それとは別に、私は複合的汚染においては机上の試算はあてにならないと考えています。)

私は、海は広いし放射性物質が拡散したら手に負えないと思っていたけれども、比較的沿岸にとどまっているわけですから、これを幸いとすべしと思います。

農林水産省主導で、地元漁業協同組合が海洋汚染の防止を研究テーマにする日本国内外の熱心な学者さんとタッグを組んで今すぐに対策を始めれば、漁業は救われる可能性が十分にあると思います。


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牛乳や野菜などに放射性物質が検出された場合も、普通ごみや下水に流すではなく、しかるべき廃棄方法を政府が指導すると良いと思います。


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