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自殺

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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメポイント:「おしゃれ」だの「洗練」だの、むしろ対極だろ?

風の歌を聴け (講談社文庫)
風の歌を聴け (講談社文庫)村上 春樹

おすすめ平均
stars最初の一冊にオススメな理由
stars2008年時点での僕の理解。
stars「風の歌を聴け」を主題とせるヴァリエイション
stars深夜の静まりきったキッチンのテーブルの上で
stars空の宝石箱

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冒頭:


「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。



あらすじ:
地方都市に帰省した大学生「僕」のひと夏の出来事の中で、「僕」の心にあって消え去ることのない生きることの悲しみを描いた作品

感想:
人生に意味はあるのか、ないとしたら、生きるとはどういうことなのか。
人生に意味はないけれど、生きることに意味はある。そう書いてあるわけじゃないし、私にもうまくいえないけれど、村上春樹の小説を読むと、そう感じる。
80年代に「ノルウェイの森」で一世を風靡し、流行作家として名を馳せた彼の作品は、「おしゃれな会話と洗練された文体で現代の若者の気分を描いた」なんていう風に当時言われた。
平明な文章で語られるスタイルのある生き方、洋服、食べ物、本、振舞い方、話す言葉へのこだわり。
それらは本当に「おしゃれ」だの「洗練」だのを目指し、表現しているのか?村上春樹自身の意図はともかくとして、作品自ずから。
華々しい成果は約束されていないけれどできることをこつこつやる。そのこつこつとした生活自体の実を是とする生き方。ここに本当に描かれているのはそういう価値観であり、おしゃれとか洗練とか、そういうことのむしろ対極にあるんじゃないか、とずっと思っている。
『風の歌を聴け』は処女作にして最も実験的な作品である。「僕」による現在の語りをベースとしながらスクラップブックのようにガールフレンド達の追憶・ラジオ放送・架空の作家「デレク・ハートフィールド」のバイオグラフィや作品などを比較的短いパラグラフで交え、ドライに仕上げている。
ここには後に繰り返し描かれることになるモチーフが既にあり、そして完成されている。中でも井戸は『ねじまき鳥クロニクル』を始めとして数え切れない作品に登場するし、自殺するガールフレンドはもちろん「蛍」や「ノルウェイの森」でおなじみだ。目を引くのは、彼女の死の余談として、その半月後に読んでいたというミシュレの「魔女」を引用しているところだ。
「ローレンヌ地方のすぐれた裁判官レミーは八百の魔女を焼いたが、この『恐怖政治』について勝誇っている。彼は言う、『私の正義はあまりにあまねきため、先日捕らえられた十六名はひとが手を下すのを待たず、まず自らくびれてしまったほどである。』(篠田浩一郎・訳)

私の正義はあまりにあまねきため、というところがなんともいえず良い。」
この短い文節(21)が面白い効果をもたらしている。
すなわち、最後の一文のとおりにレミーの言葉はあまりに独特の面白味をもっているためそちらに重心が言ってしまうのだが、大学構内の林で縊死したガールフレンドの話と魔女の話を関連させるには残酷で不謹慎であり、それも「なんともいえず良い」なんて感想は問題外でドライというより冷たく、けれどもナンセンスな魔女裁判の犠牲者というメタファーがそこで生まれるため、彼女の死が悼まれてもいるのだ。
唯一のどかさを感じたのは鼠との出会いの思い出で、「何でもできるような気がした」という全能感が描かれていること。これは村上春樹の後の作品に二度と出てこない。できるような気がした、といって、別に何ということもしていないのだけれども。
風の歌、と聴くと移ろいやすい美しさや心地よさを思い浮かべ、風鈴や竹林を渡る風を連想するが、読んでみればデレク・ハートフィールドの『火星の井戸』を吹き渡る風は狂おしくおぞましく、ムンクの「不安」やグリークの「二つの悲しい旋律」の「過ぎし春」を思い出す。

DATA:
10進分類:913.6
内容分類:純文学
メインテーマ:青春

時代背景:1970年夏

漢字の難しさ ☆☆★
表現の難しさ ☆★★
文体の読みにくさ ☆★★
テーマの重さ ☆☆★
テーマの難解さ ☆☆☆
所要時間:1時間30分

受賞:群像新人賞


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関連タグ : 村上春樹, 処女作, 群像新人賞, 青春, 自殺,

オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:読みやすく優しい語り口なのでどなたでも。
オススメな読み方:「第一の手記」は幼年時代であまりドラマティックではないが、重要なので斜め読みせずきちんと読み込む
人間失格 (集英社文庫)
人間失格 (集英社文庫)太宰 治

おすすめ平均
stars人間失格
stars言い訳
stars素直な人だな
stars自分自身を感じること
stars表紙について

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川崎市立日本民家園、というところが小田急線向ヶ丘遊園から歩いた生田緑地の中にある。全国から集めた古民家を、地域ごとにまとめて展示してある。保存の状態は良く、園の規模も大きすぎず小さすぎずといったところ。緑の中を散策しながら見学できる。
以前多摩の方に住んでいた頃、でかけたことがある。この民家園と、同じく生田緑地内の岡本太郎美術館をぐるりと回った。
丁度ボランティアによる方言での民話が東北地方の民家の囲炉裏端で行われるというので、きいてみようと、その時間に合わせて園内を巡り、会場となった一軒に訪れた。
そこで三人の女性ボランティアが語った中に、瓜子姫と天邪鬼があった。瓜の中から生まれた瓜子姫はじいさまとばあさまの留守中に言いつけにそむいて天邪鬼という化け物を家に入れてしまい、取って代わられてしまう。「天邪鬼は瓜子姫をだまして着物を交換した」というくだりで、はたと、これは犯されているという暗喩なのだな、と気がついた。大人になって改めて聴いてみると、あからさまなことがあるものだなあ、と感心した。

同じことが太宰治の「人間失格」にもあった。
人が何を求め生きているのか理解できない主人公、葉蔵。彼は名家に生まれ頭もよく人々に好かれながらも人間全体に共感する喜びを味わえないがゆえに破滅していく。
人が怖い。人々に好かれる、そのことも彼にとっては恐怖であった。女にもてることを恥じ、嫌悪感に引きずられるようにもっと女を利用するような生き方をしてしまう。
この男が女をひきつけるわけは、人の心に同じ体温でまざりあってくるおっとりとした存在の色気だろう。
情死を試みて自分だけ生き残り、女だけ死んだ。その相手を語っている部分を引用する。

侘びしい。
自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟きのほうに、共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、ついにいちども自分は、その言葉を聞いたことがないのを、奇怪とも不思議とも感じております。けれども、そのひとは、言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、離れることができるのでした。


そして、その女と過ごした一夜は、自分にとって唯一幸福な解放せられた夜だった、と語るのである。
からだの一寸くらいの周りを覆うことばでひとに伝えられない気持ちを、肌をあわせて混ぜ合わせること。これは男性には少なく、女性が求めることの多いエロスだ。それゆえ、求めても与えられることは少ない。女はそういうことに飢えているのである。現代の小説、ドラマその他にあらわされる男性像や身の回りにいる若い人を見ると、昨今は変化してそういったことを求める男性も増えてきているのかもしれないが、『人間失格』の舞台である昭和の始めには多くはなかっただろう。葉蔵がほっておかれないわけである。

さて、何が「民家園できいた瓜子姫」と同じなのか、である。
子供の頃から2回ほどは読んだことがある「人間失格」だが、今読んでみて、これまで気付かなかったあからさまな点があったのだ。
それは、葉蔵が幼児期に性的虐待を受けていた、ということである。それについて比較的あっさりと書かれているので性的虐待のトラウマについて知識がなかったこともあり見逃したのだろう。それに若かった私にとって肉欲は客観視できる対象ではなく、文学作品においても自分が興味があるか無いかで性的な示唆をキャッチするかしないかが決定してしまっていて、幼児に興味がないためにその情景を思い描くことをパスして読み過ごしてしまったのだろう。

その頃、既に自分は、女中や下男から、哀しい事を教えられ、犯されていました。


しかし、そのことを両親に言うことはできなかった。
人々は子どもの前で油断して、相手によって本音と建前を使い分けている姿を見せている。しかし早熟で頭の良かった葉蔵はそれに傷つき、混乱する。

互いにあざむき合って、しかもいずれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合っていることにすら気付いていないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満しているように思われます。
(中略)
自分には、あざむき合っていながら、清く明るく朗らかに生きている、あるいは生き得る自身を持っているみたいな人間が難解なのです。人間は、ついに自分にその妙諦を教えてはくれませんでした


そして、性的虐待を人に訴えることができなかった理由に、人間全体への疎外感を打ち明ける。

つまり、自分が下男下女たちの憎むべきあの犯罪をさえ、誰にも訴えなかったのは、人間への不信からではなく、また勿論クリスト主義のためでもなく、人間が、葉蔵という自分に対して信用の殻を固く閉じていたからだったと思います。父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があったのですから。



ある種の犯罪は、誰も知らないから起こる。ある種の犯罪、自分よりも弱い者への犯罪である。
嬰児殺ししかり、性的虐待しかり。
主人の息子に性的虐待を加える、もしそれがすぐに言いつけられたり、察せられてしまったりするなら、病気でないかぎりそんなことはしないだろう。
加害者の悪や異常だけで性的虐待を受ける子ども達ができるわけではなく、そこには子どもが訴えることができない、周りが察することができない、という環境の問題がある。
ここで考えたいのは、簡単に虐待の事実を述べている一文の的確さよりも、「父母でさえ、自分にとって難解なものを、時折、見せる事があった」という父母の難解についてである。
『人間失格』の中で、父母が彼に見せたという難解さの説明は全くない。太宰治は他の小説でも幼児期の性的虐待を示唆しており、また、『人間失格』の中で述べられている情死の失敗は太宰治のカフェの女給で人妻の田部シメ子との心中未遂のことであったりと自伝的小説であると考えられていることから、幼年時代の性的虐待も事実だった可能性は高い。
私が一層強くそれを感じるのは、父母の難解さについて説明されていない不自然さである。
太宰治は父母との関係に足らないものを感じており、その不足が自分への女中下男からの性的虐待を許す環境となったと書かれている、と読み解く。

すると、ゆるゆるするすると、『人間失格』がほどかれていくのだ。
純真無垢で疑うことを知らないがゆえに下卑た商人に犯されてしまう妻ヨシ子。妻が犯された事実よりもその事件のせいで人を信じることができなくなったヨシ子が辛く苦悩する葉蔵。これは純真無垢なヨシ子に自分自身の幼年時代を重ねて見ていたがゆえだろう。
また、繰り返し語られる人から好かれることへの恐怖と羞恥はストレートに性的虐待のトラウマである。

最後にバーのマダムが言う

あのひとのお父さんが悪いのですよ


という言葉。この小説にお父さんが悪いところなんか、少しも描かれていないのである。父は確かに登場するが、普通の父親として描かれている。確かに葉蔵の不始末に腹を立てるが、それはもっともなことであり、この小説自体それを自然なこととして描いて、特段声高に異議を唱えたりはしていない。
では何が悪いのか。
父は何をすべきだったのか。
何から守ってやるべきだったのか。

『人間失格』。描かれていないことに哀しい事が隠されている気がしてならない。

人間失格 (集英社文庫)
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オススメ対象:生あるもの
オススメポイント:僕は、僕は、僕は生きたい!

自殺について 他四篇自殺について 他四篇
ショウペンハウエル Arthur Schopenhauer 斎藤 信治

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ショーペンハウアーは、熱い。
厭世主義だとか、冷徹だとか、私は一度もそんなふうに感じたことがない。
ゲーテに認められた程の文学的才に語られる哲学は鋭く真理を突く、だけでなくロマンティックだ。
哲学書についての感想、は難しい。私もこのうすっぺらい、主著「意志と表象としての世界」の補遺だけでも理解し切れていない部分が多くある。のみならず、哲学書について語ることは小説のように一冊の本の中に封じ込められたひとつの世界について語ればいいというものではなく、その本の外側にある全世界について語らなければならなくなる、ということが言えるだろう。にわかじこみの用語やこなれていない引用でなしに、自分なりにそれを言うことが、もっとできるようになればと切望しているのだがなかなか叶わない。

けれど彼の哲学の根底をなしているもの、それは我々現代人がいまだ抱いているちぎれるほどの思いだと言い切れる。
我々はなぜ死なねばならぬのか、なぜ我々が死んでも世界は続いていくのか。
私たちの解放された自我。解放されてはならなかった自我。それはもはや至上の位置を確立してしまっているのに、なぜその消滅がありうるのか。

「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」の8.余興としての小対話篇は彼の論理をわかりやすく説明している。
トラシュマコス:「僕は、僕は、僕は生きたいのだ!これこそは僕の切なる願望だ。理屈で以って漸くそれは僕のものだという風に納得させられねばならぬような現存在などは、僕にはどうでもいいのだ」」
フィルラートス:「だがねえ、ようく考えて見給えよ!「僕は、僕は、僕は生きたい」と君は叫ぶけれど、そんな風に叫んでいるのはなにも君だけではないのだ。むしろすべてのものが、意識のほんのかすかな影だけでももちあわしているものであれば文字通りにすべてのものが、そう叫んでいるのだ」

ショーペンハウアーのロマンチックな発熱は、そこから”私”を”我々”に雪崩れ込ませるところだ。すなわち、生を得てやがて死んでいく”我々”は単に間接的にだけ個体であるにすぎず、つまり死すらかりそめのもの、”我々”は「生きたい」という意志のもとひとつであり、生きたいという盲目の意志として”我々”は永遠に存在し続けるのだ、と断言しきる情熱なのだ。


生きたい、私は生きたい。私も、そう叫んでいる。

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オススメ対象:激情と静寂を併せ持つ人に。
オススメポイント:誰にも捕まらない女と誰も掴まえなくて良い女の恋
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年を重ねるごとに、人生は複雑になり、思いはシンプルになる。
若いときには目をぎゅっとつむり息をとめて早く過ぎてしまうことだけを祈ってた刹那に、目を開いていられるようになる。夢中であることもくるしみつくすことも変わらないのに、みひらいているぶん、その映像を知ってしまう。恐ろしくも美しく。こんなときにこんな場所で呼吸ができるなんて、と吸ってしまったが最後、もう元には戻れない体なのだった。怖いものがなくなるなんて、なんと恐れ多い。
大きな安らぎを捨てて恋人が女にはしった。とうの女が男の去ったマンションに住み着いてしまう、誰にも所有されない女はでもそのことをけして楽しんではいないのだ。不幸なひと。
誰が誰と恋をしているのか。
だれかを自分のほかの誰かを欲しいと思い知りたいと思うそれが恋ならば、この女ふたりの、恋なのかも。

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