びぶりおふぃりあ  ブックレビューとオススメの海外ドラマ・映画のあらすじと感想。顔面血管腫(赤アザ)カバーメイク体験談

英文学

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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:運命の恋に憧れる人
オススメポイント:ありのままを語らうとき

新訳 ロミオとジュリエット新訳 ロミオとジュリエット
シェイクスピア 河合 祥一郎

角川書店 2005-06-25
売り上げランキング : 27,371
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「はっきり言いなさい。普通の言葉でありのままを。
謎めいたざんげでは、謎めいた赦ししか与えられぬ。」
これはロミオが修道士ロレンスのところに出向き、敵のキャピュレットの娘ジュリエットと恋に落ちてしまったことを打ち明ける場面でのロレンスのセリフ。
好きな言葉だ。いさぎよくありたいと思うとき、勇気の感触をおもいださせてくれる。本気じゃなきゃ本物は手に入らないし、ときどきの本気なんてありえなくて、ずうっと本気でずうっと本物で生きたい。
長く細く生きるのか、短く太く生きるのか、そんなの長く太く生きるに決まってる。
この人に正直になろう、この人にはその価値があるのだから。この人生に正直になろう、この人生にはその価値があるのだから。
ロミオとジュリエットは出会った瞬間に運命的な恋に落ちる。二人はまるで神話の神々が儀式の言葉を交わすようにお互いへの思いをソネットにする。それはふたりの別々の人間の間で言葉というものがぴたりと一致する奇跡のエロスだ。言葉の魔法は恋人達をだれもいない場所に連れて行き、時すら通り過ぎることのできない部屋に鍵をかけ、隙間なんてないくらいぴったり、くっつけてしまう。そして交わされるキス。そこからは無我夢中。
そして二人はあっというまに死んでしまう。出会ってから数日の間に結婚し、引き裂かれ、死んでしまう。
これがはっきり言った、その結果。「なぜロミオなの」、とすべての属性を否定し、目と目を底まで見交わし、魂に魂を重ねて、本気で本物を手に入れた結末。
ありのままを語らうのは、用心したほうがいい。

そういえばこの修道士ロレンス、かなりのワルだ。ありのままを語らせた罪。この男さえいなければロミオとジュリエットは死ななくて済んだ。きっと幸せに結婚できたはずだ。両家のかすがいになるかもしれぬなどと年端の行かぬ子供同士を面白半分秘密裏に結婚させたりして、挙句の果てにはいかがわしい薬で死んだ振りをさせ、ろくな見張りもせずに放置。こいつシャイロックより悪者だろ。
ロミオとジュリエットの編み出す美しい詩に彩られた数々の場面のためにうっかり忘れさせてしまうあたりシェイクスピアあっぱれなんだけど、そういうことを考えだすとシェイクスピアってものすごくつっこみどころが多い。モンタギューとキャピュレット家のひとたちって抗争中のやくざなの?とかさ。

さておき、長く太くなんて、無理なのかな?

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関連タグ : シェイクスピア, 恋愛, 英文学, 戯曲,

オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:年を取るごとにみずみずしくなる人へ
オススメポイント:頭などくだらないわ、心に比べれば。

ダロウェイ夫人ダロウェイ夫人
ヴァージニア ウルフ Virginia Woolf 富田 彬

角川書店 2003-04
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クラリッサ。それは初めて読んだ17の年から、美しいひとの名前だ。
いつ読んでも、時の流れに色褪せぬ瑞々しさに目を瞠る。
昔の恋人ピーター・ウォルシュが突然訪ねてきて、あてつけ半分に自分は今ある女に恋をしている、と告げた再会のシーン。
クラリッサは彼の偽悪的な口調を観察しながら、相手の女のことを悪い女だと想像しながら、彼が未だに若いときのナイフをいじる癖を持っているのに苛立ちながら、「でも、このひとは恋をしている」「このひとは恋をしている」と繰り返し繰り返し感じる。あの永遠の若さのあえぎ、柔らかな風にほんのすこしずつ乳房を摘み取られていくよな狂おしさ。

舞台はロンドン、ビッグ・ベンの聞こえる範囲。時代は第一次大戦終結直後。登場する人々は、幼馴染のヒュー、昔憧れた女友達サリー・シートン、夫リチャード、娘エリザベス、自殺してしまうセプティマスと気の毒な妻ルチア、そしてもちろん植民地インドから帰って来たピーター・ウォルシュ。有力な人々、無力な人々。ペンは風のように鐘の音のようにロンドンの町を飛び響き、人々の感じるままを言葉に変えていく。この小説の主人公は流れゆき二度と返ることのない時間かもしれない。その時間の中で、人はなんて、様々に物思うのだろう。
ピーター・ウォルシュはクラリッサは老けたな、と思う。ピーター・ウォルシュはクラリッサは俗物だ、と思う。ピーター・ウォルシュはクラリッサは薄情だ、と思う。会いたくないと思う。二度と会うまいと思う。会いたいと思う。会いたい、会いたい。

目を見張るほど完璧な終盤、こんなに好きなラストシーンは他にない。
ダロウェイ家のパーティーで、ピーターは女主人クラリッサが自分のところに話しに来てくれるのをずっと待っている。昔馴染みサリー・シートンと語らいながら。彼らは、離れ離れでいた日々が自分たちの人生観をどのように揺るがしたかについて話す。
サリー・シートンは言う、感ずることだけが言う価値のあることだと思うようになったと。「利口さは馬鹿げてるわ。人は感じるままを言わなければならないのよ」。
ピーターはサリー・シートンに打ち明ける。自分には、自分の感ずるところがわからないのだと。人生は単純なものとは思えないと。「クラリッサとの関係は単純なものではなかったんです。それは僕の一生を台なしにした。二度と恋はできません」。
それでもピーターはこうも言うのだ。若いときにはあまり興奮しすぎて、ひとを知ることができないけれど、年をとって、成熟すると、観察することができ、理解することができ、しかも感ずる力を失わずにいる、悲しいかな。しかし人はそれを喜ぶべきなのだと。
私はある狂気が自分の身のうちにあることを知って震えてしまう。それはある日ヴァージニア・ウルフを水底へ連れ去った狂気だ。年を増すごとに感じることが増え、人生などこの一瞬一瞬に感じるままでしかないことを刻々と思い知りながら、いつか死んで消滅するしかない私達。美しくて無意味な、いとおしくて役に立たない、私達の人生。それを稀代の鋭敏な感性によって見つめつづけた天才ヴァージニア・ウルフの苦しみはいかばかりだったろう。ほんとうに、どんなに、どんなに、辛かっただろう。

そしてサリーが立ち去った後、あの決定的な瞬間が訪れる。
時間のなかで千々に乱れる特別な誰かへの思いがひとつの閃光となって、いつも賢くあることなどできない愚かな私に落雷する。私は深く頭を垂れてそれを受けるしかない。憎く思い信じきることが出来ず後悔し足摺し忘れようとあがいた、その感じた思いの一つ一つが突如臨界点を超え、その存在に深く雪崩れ込むのだ。美しいから、善良だから、立派だから愛したのではない、ただその深い存在そのものを絶望的に愛してる。

「僕も行きます」とピーターは言ったが、しばらくそのまま腰かけていた。この恐怖はなんだ?この有頂天はなんだ?と彼は心に思った。ただならぬ興奮でおれの全身をみたすものは、何者だ?
クラリッサだ、と彼は言った。
なぜなら、クラリッサがそこにいた。


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オススメ度:☆☆☆☆☆
オススメ対象:愛の乞食である私達みんな
オススメポイント:怯むことなき粗野な確信
4003223314嵐が丘(上)
エミリー・ブロンテ 河島 弘美

岩波書店 2004-02-19
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4003223322嵐が丘〈下〉
エミリー ブロンテ Emily Bront¨e 河島 弘美

岩波書店 2004-03
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愛が何なのか、断言できない。
目と目があった瞬間に、好きだと感じたら、それが愛なのだと、十代のころは思っていた。
全身の血が重たくなるような優しい気持ち、それが愛なのだと、二十代のころは思っていた。
そして33歳の今、愛って、ある確信のことなんじゃないかと、思っている。

「彼は私で、私は彼なの。」
「嵐が丘」のキャシーは言う。
「あたしはヒースクリフなのよ、ネリ!彼は、いつでも、いつでも、あたしの心の中にいる。よろこびとしてではないかも知れぬということは、あたしがあたしにとって、いつもよろこびだといえないと同じだけど、彼はあたし自身と同じ存在なのよ。だから、あたしたちがはなればなれになるなんて、二度といわないでちょうだい。そんなこと、できはしないことよ。」
キャシーとヒースクリフは最初から確信しているのだ。だから彼らは「おまえは私を愛しているのになぜ裏切った!」と互いを殺すほど責め苛むことができる。彼らは「私のこと愛してる?愛してない?」なんて言わない。確認など一度たりともしない。それこそが、「嵐が丘」の比類ない激しさだ。

恋は勝負や収穫と勘違いされることがある。どっちが多く好いているのかとか、愛されている証拠を飽くことなく求め続け、贈り物がどっさり積み上げられないと満足できない。愚かしく自分を守り、二人になれない。
けれど激しい恋の極まるところでふいに、わかる瞬間が来る。彼は私で、私は彼なのだ、と。私が彼を愛していることと、彼が私を愛していることは、確認したり比べたりするようなことじゃなく、ひとつのこと、つまりこれは私達の愛なのだ、ということを。

「嵐が丘」で彼らの恋は他のロマンスのように美しいこと楽しいことせつないことを歌わない。そういったことは極端に簡素な表現でそっけなく語られるだけだ。そう、たとえば「いつもいっしょに荒地で遊んでいました」みたいな風に。
詳しく語られる彼らのロマンスは互いを罵り合い傷つけ合い苦しめ合うことだ。
互いが一つであるという確信、絆というものは、決して楽しみや美しさからは生まれない。それは深い苦しみからのみ、立ち上がってくるものだ。
彼らの間で肉体的な欲望が問題になることはない。そこにはもちろん時代的背景が存在するのだろうが、それを忘れさせるのは「嵐が丘」がセックスなど一切なくても胸貫き息奪うほどの官能を謳っているからだろう。互いを自分自身だと思い、相手がそう思っていることを知っている、彼らにとって肉体は彼らが一つにまじりあう妨げとなる魂の牢屋であり、死によってその牢獄から解放されることだけが喜びなのだ。

多く愛されることや、めくるめく快楽などいったいなんだろう。「嵐が丘」を読むと、そう思うのだ。

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