お知らせ
オススメ度:☆☆☆☆★
オススメ対象:美に疲れた人へ
美容整形を繰り返す人々、という特集をTVで見た。
もともとが美しい上に、リフトアップなどの美容整形を常に施している女性。ハワイで17歳に間違われてお酒を売ってもらえなくて、と嬉しそうに医師に報告していた。確かに、日本人から見ると17歳は言いすぎでも、24,5歳に見える。でも本当は、40歳。
美容整形をしない、という人生もありえたと思うか、との問いに彼女は、こう答えた。
「こんなに見た目で評価するような世の中じゃなかったら、見た目じゃなくて内面を磨く、という道もあったと思う」
これは、正直ではあるが、ちょっと違う。
彼女が言っている内面、とは結局表面なのだ。
「人からの評価を自分の価値観としている限り、内面などどこにもない」
と思う。
彼女の内面磨きの具体的なイメージは、勉強して教養を身につける、とか、そういうことなのだろうか。お花を習ったり、楽器を練習したり、とか。
美容整形に使うはずだったお金の、使い道のバリエーション。
そして誰かが、誉めてくれる。
「ドリアン・グレイの肖像」のドリアン・グレイは若く美しい貴族だ。無垢だった彼を、一枚の肖像画が変えてしまう。彼は自分がこんなにも美しかったのだ、という事実に打たれる。そしてそこに居合わせた皮肉な詩人の言葉が、彼を覚醒させる。自分には美しさしかない、そしてその唯一の宝は若さと共に失われてしまうのだ。それは死の宣告のように彼を恐怖に陥れる。
彼は耐えかねて叫ぶ、「僕は年を取らずに、この絵が年を取っていけばいいのに!」
そしてその願いは、聞き届けられる。
物語はシンプルでドラマもあり、登場人物それぞれの物語の配分も絶妙で、面白く読むことができる。
しかしこの物語には、ドラマという点で考えると奇妙なところがひとつだけある。
ドリアン・グレイは無邪気で優しい青年だったのだが、身勝手で他人の心に興味のない人間になってしまう。
しかしその変化はドラマという点で考えると、その絵が自分の代わりに年を取り、冷酷な行いが変えていく人相さえも代わりに引き受けてくれる、と気付く時に始まるのがふさわしいだろう。
しかし、その前から既に彼は表面的なことにしか興味がない、人を評価することにしか興味がない人間に変貌しているのだ。
彼が婚約したのは身分の低い女優だが、才能があった。彼はその才能を愛でたのだが、恋に落ちた女優は突然自分の仕事に興味を失い、へたくそになってしまう。それでもその才能の喪失を彼女は燃える愛の歓びに胸を張り誇らしげにドリアン・グレイに告げる。その愛の言葉は素直で美しく、喜んで両腕を広げる男はいくらでもいるだろう。
しかしドリアン・グレイはそんな彼女を陳腐だと言ってあっさり捨てる。
その直後なのである、ドリアン・グレイが例の肖像画の様子がおかしいことに気付くのは。
「美は才能のひとつだ。美に説明は要らない」
確かに美の力は圧倒的だ。
しかし、美はその持ち主を打ちのめす。そして、その根拠無きゆえに圧倒的で、また根拠無きゆえに全く頼みにならない。自信と恐怖を与える。これがなくなったとき、自分には何も残らないかもしれない。老いの恐怖。愛する自分の美しさを確認するたび、同時に飲まされる毒は日々刻々、年老いていく姿。美はいつかやがて自分を見捨て去り、二度とかえって来ないだろう。
「いつまでも若さを失わないのが僕のほうで、この絵が老いていけばいいのに!そうできるなら、そのためなら、僕は何だって差し出すよ。そうさ、この世の何だって差し出す!魂だって差し出すよ!」
美の真実を知った時点で、ドリアン・グレイはもう無垢な魂を失っているのだ。
オススメ対象:美に疲れた人へ
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美容整形を繰り返す人々、という特集をTVで見た。
もともとが美しい上に、リフトアップなどの美容整形を常に施している女性。ハワイで17歳に間違われてお酒を売ってもらえなくて、と嬉しそうに医師に報告していた。確かに、日本人から見ると17歳は言いすぎでも、24,5歳に見える。でも本当は、40歳。
美容整形をしない、という人生もありえたと思うか、との問いに彼女は、こう答えた。
「こんなに見た目で評価するような世の中じゃなかったら、見た目じゃなくて内面を磨く、という道もあったと思う」
これは、正直ではあるが、ちょっと違う。
彼女が言っている内面、とは結局表面なのだ。
「人からの評価を自分の価値観としている限り、内面などどこにもない」
と思う。
彼女の内面磨きの具体的なイメージは、勉強して教養を身につける、とか、そういうことなのだろうか。お花を習ったり、楽器を練習したり、とか。
美容整形に使うはずだったお金の、使い道のバリエーション。
そして誰かが、誉めてくれる。
「ドリアン・グレイの肖像」のドリアン・グレイは若く美しい貴族だ。無垢だった彼を、一枚の肖像画が変えてしまう。彼は自分がこんなにも美しかったのだ、という事実に打たれる。そしてそこに居合わせた皮肉な詩人の言葉が、彼を覚醒させる。自分には美しさしかない、そしてその唯一の宝は若さと共に失われてしまうのだ。それは死の宣告のように彼を恐怖に陥れる。
彼は耐えかねて叫ぶ、「僕は年を取らずに、この絵が年を取っていけばいいのに!」
そしてその願いは、聞き届けられる。
物語はシンプルでドラマもあり、登場人物それぞれの物語の配分も絶妙で、面白く読むことができる。
しかしこの物語には、ドラマという点で考えると奇妙なところがひとつだけある。
ドリアン・グレイは無邪気で優しい青年だったのだが、身勝手で他人の心に興味のない人間になってしまう。
しかしその変化はドラマという点で考えると、その絵が自分の代わりに年を取り、冷酷な行いが変えていく人相さえも代わりに引き受けてくれる、と気付く時に始まるのがふさわしいだろう。
しかし、その前から既に彼は表面的なことにしか興味がない、人を評価することにしか興味がない人間に変貌しているのだ。
彼が婚約したのは身分の低い女優だが、才能があった。彼はその才能を愛でたのだが、恋に落ちた女優は突然自分の仕事に興味を失い、へたくそになってしまう。それでもその才能の喪失を彼女は燃える愛の歓びに胸を張り誇らしげにドリアン・グレイに告げる。その愛の言葉は素直で美しく、喜んで両腕を広げる男はいくらでもいるだろう。
しかしドリアン・グレイはそんな彼女を陳腐だと言ってあっさり捨てる。
その直後なのである、ドリアン・グレイが例の肖像画の様子がおかしいことに気付くのは。
「美は才能のひとつだ。美に説明は要らない」
確かに美の力は圧倒的だ。
しかし、美はその持ち主を打ちのめす。そして、その根拠無きゆえに圧倒的で、また根拠無きゆえに全く頼みにならない。自信と恐怖を与える。これがなくなったとき、自分には何も残らないかもしれない。老いの恐怖。愛する自分の美しさを確認するたび、同時に飲まされる毒は日々刻々、年老いていく姿。美はいつかやがて自分を見捨て去り、二度とかえって来ないだろう。
「いつまでも若さを失わないのが僕のほうで、この絵が老いていけばいいのに!そうできるなら、そのためなら、僕は何だって差し出すよ。そうさ、この世の何だって差し出す!魂だって差し出すよ!」
美の真実を知った時点で、ドリアン・グレイはもう無垢な魂を失っているのだ。
オススメ度:☆☆☆☆★
オススメ対象:あわれな影法師たち
オススメポイント:運命
運命とは何か。
ややこしいこと抜きにして言い切ってしまいたい、運命とは神だ、と。
「マクベス」はシェイクスピア4大悲劇(理屈っぽいハムレット、軽はずみなオセロー、老いぼれリア王)の中でも禍々しく血の匂いのべったり貼り付いた劇である。
マクベスは荒野で3人の魔女に予言を与えられる。やがて王となるだろう、と。幸運の知らせのはずがそれはまるで呪いのように、野心のまま突き進むマクベス夫人に操られるように彼は暗殺により王位を奪いその座を守るために人を殺し続ける。
疑心暗鬼となった彼が拠り所とするのは予言の言葉、「バーナムの大森林がダンシネインの丘に攻め上って来ぬ限りマクベスは滅びない」。しかし、森は動き始める・・・。
マクベスの悲劇は予言の悲劇だ。人は運命に、神に逆らうことはできない。そして予言という形で与えられる情報はあまりにも曖昧で希望に縋る者の曇った目にはいかようにも情け深く歪む。神の意思ははかり知れない。
運命を物語として振り返った時にだけ私たち凡俗の人間も語ることができるのだ、「マクベスは最初から滅びるはずだったのだ」と。
子供の頃はこういった、予言の意地悪にはめられて堕ちていくような物語の人物をただ「馬鹿」だと思っていた。TVアニメで見ても本で読んでも「なんでこうなるってわからないんだろ」と思っていた。それはその状況を見る視線が覗き見だったり傍観者だったりして、対等な立場の中であっちはちょっと馬鹿、こっちはお利口さん、という意識だったからだろう。これは神の存在を考慮しないと正しく理解できないのではないか、とあるときふと思った。
彼らが愚かなのは、私に対してではなく、神に対してなのだ。私は彼らよりも賢いから彼らの失敗を見越しているのではなく、物語という限定の中で神の視線を借りているのだ。
観客席に座り舞台を見るのは、ちょっとの間、神になるということなのかもしれない。
☆面白い、と思ったらここをクリック!☆
オススメ対象:あわれな影法師たち
オススメポイント:運命
| シェイクスピア全集 (3) マクベス | |
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運命とは何か。
ややこしいこと抜きにして言い切ってしまいたい、運命とは神だ、と。
「マクベス」はシェイクスピア4大悲劇(理屈っぽいハムレット、軽はずみなオセロー、老いぼれリア王)の中でも禍々しく血の匂いのべったり貼り付いた劇である。
マクベスは荒野で3人の魔女に予言を与えられる。やがて王となるだろう、と。幸運の知らせのはずがそれはまるで呪いのように、野心のまま突き進むマクベス夫人に操られるように彼は暗殺により王位を奪いその座を守るために人を殺し続ける。
疑心暗鬼となった彼が拠り所とするのは予言の言葉、「バーナムの大森林がダンシネインの丘に攻め上って来ぬ限りマクベスは滅びない」。しかし、森は動き始める・・・。
マクベスの悲劇は予言の悲劇だ。人は運命に、神に逆らうことはできない。そして予言という形で与えられる情報はあまりにも曖昧で希望に縋る者の曇った目にはいかようにも情け深く歪む。神の意思ははかり知れない。
運命を物語として振り返った時にだけ私たち凡俗の人間も語ることができるのだ、「マクベスは最初から滅びるはずだったのだ」と。
子供の頃はこういった、予言の意地悪にはめられて堕ちていくような物語の人物をただ「馬鹿」だと思っていた。TVアニメで見ても本で読んでも「なんでこうなるってわからないんだろ」と思っていた。それはその状況を見る視線が覗き見だったり傍観者だったりして、対等な立場の中であっちはちょっと馬鹿、こっちはお利口さん、という意識だったからだろう。これは神の存在を考慮しないと正しく理解できないのではないか、とあるときふと思った。
彼らが愚かなのは、私に対してではなく、神に対してなのだ。私は彼らよりも賢いから彼らの失敗を見越しているのではなく、物語という限定の中で神の視線を借りているのだ。
観客席に座り舞台を見るのは、ちょっとの間、神になるということなのかもしれない。
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オススメ度:☆☆☆★★
オススメポイント:題材が秀逸
ツッコミポイント:調理法が惜しい
自分の過去の謎を解き明かす旅の話は、それだけで既におもしろい。
これはひとつのロマンの典型なのだ。
自分の人生の価値を確かめに行く、それは多くの人が抱く夢だろう。そういった物語が与えてくれる満足は自己の願望の代行だが、それが全く自分と同じ境遇である必要はないのであり、むしろ知らない遠い世界の出来事であるなら申し分ないのである。
一見したところ平凡に見えるであろう中年女が、平凡ならざる過去を持っている。それはある挫折に繋がるひとつづきの思い出だ。少女時代を過ごした共産圏における豊かな情操教育とその影響によるダンサーへの夢。ダンサーになったもののスターになるほどの才能には恵まれず、怪我によって引退、帰国子女としての経験を活かし翻訳業へ転身。しばらくはダンスを目にするのもいやだった。しかし、もうその傷も癒えた。ふとしたきっかけで彼女はその過去を辿る旅に出る。
チェコスロバキアのソビエト学校。地元の学校ではなく、ソビエト連邦管轄の学校である。ここで主人公志摩は名物ダンス教師オリガ・モリソヴナに出会う。彼女は優に七十を超える堂々たる老婆であるが、スタイルは抜群に良く、おまけにレッスンでは破廉恥な言葉を多様、特に反語法を使って生徒を震え上がらせるのだ。反語法、要するにここでは誉め殺しのことだ。
「ああ神様! これぞ神様が与えて下さった天分でなくてなんだろう。長生きはしてみるもんだ。こんな才能はじめてお目にかかるよ! あたしゃ嬉しくて嬉しくて嬉しくて狂い死にしそうだね!」
これ、誉めているのではないのである。
『文法の授業で反語法のことを習うよりはるか前から、子供たちはみな、先生が「天才」と言うのは「うすのろ」の意味なのだと知っていた。』
「ぼっ、ぼくの考えでは……」
と生徒が言い訳しようとすると、
「ぼくの考えでは……だって。フン。七面鳥もね、考えはあったらしいんだ。でもね、結局スープの出汁になっちまったんだよ」
実に豪傑で好奇心をそそられる老婆オリガ・モリソヴナであるが、そんな彼女には激動の過去、そして誰にも言えない秘密があったのだ。
スターリンによる大粛清の恐怖はその当時のみならず、人々のその後の人生までを狂わせてしまった。
それを語る一冊。
米原万里でなければ語ることのできない題材を扱っており、それだけでロマンは十分ではあるが、惜しむらくは十分に小説の体を成していないということ。事実関係がどうだかは知らないが書き味がどこまでもノンフィクションなのだ。小説家でない人の書いた小説。これがノンフィクションであればすばらしい作品だと思うが、ノンフィクションで満たすことの出来なかった願望をちょっとしたファンタジーで補い、架空の事実が含まれているから「小説」と名乗っている、そんな気がするのだが。
さて、ノンフィクションとフィクションの違いは、事実か空想か、ってところだけなのだろうか。
たとえば主人公が追い求めているのはオリガ・モリソヴナと再会することなのか?
オリガ・モリソヴナは年齢を詐称している、という設定になっているが、実際にいくつなのかわからない、という設定は読者に「再会できる(存命である)年齢なのか」どうかの判断を迷わせる。迷わせることが目的なのであれば、オリガ・モリソヴナの実年齢が発覚する場面はもっとドラマチックであって良いだろう。
また動機という店では、オリガ・モリソヴナという人物を解き明かすことが主人公にとって切実な願いであるような理由、たとえば中年の「自分の人生に意味があったのか」という悩みをかつてのオリガ・モリソヴナの存在に結びつけ、その謎を解くことで救われると信じているような、そんな動機付けが必要だろう。主人公の挫折のエピソードが通り一遍で、よく描かれていない。
途中からジーナというオリガ・モリソヴナの娘が目標に摩り替わってしまうのだが、そのジーナという娘がまた母とは別な魅力的な人物として描かれていることも、散漫だと感じる。
エンターテインメントに徹すればもっと目的を果たせたのではないか。つまり読んだ人に何かがもっと伝わり、さらに多くの人に本を手にとってもらえ、共産圏にあった恐怖政治の生々しい事実と、それでも存在した文化的な豊かさを鮮やかに表現できたのではないか。
ただ、小説として難点である米原万里のキップの良さ、読む人をじらせ待たせたりできない有能さは反面、全体を上品かつスピードのあるものに仕上げているのは確かだ。
☆面白い、と思ったらここをクリック!☆
オススメポイント:題材が秀逸
ツッコミポイント:調理法が惜しい
| オリガ・モリソヴナの反語法 | |
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自分の過去の謎を解き明かす旅の話は、それだけで既におもしろい。
これはひとつのロマンの典型なのだ。
自分の人生の価値を確かめに行く、それは多くの人が抱く夢だろう。そういった物語が与えてくれる満足は自己の願望の代行だが、それが全く自分と同じ境遇である必要はないのであり、むしろ知らない遠い世界の出来事であるなら申し分ないのである。
一見したところ平凡に見えるであろう中年女が、平凡ならざる過去を持っている。それはある挫折に繋がるひとつづきの思い出だ。少女時代を過ごした共産圏における豊かな情操教育とその影響によるダンサーへの夢。ダンサーになったもののスターになるほどの才能には恵まれず、怪我によって引退、帰国子女としての経験を活かし翻訳業へ転身。しばらくはダンスを目にするのもいやだった。しかし、もうその傷も癒えた。ふとしたきっかけで彼女はその過去を辿る旅に出る。
チェコスロバキアのソビエト学校。地元の学校ではなく、ソビエト連邦管轄の学校である。ここで主人公志摩は名物ダンス教師オリガ・モリソヴナに出会う。彼女は優に七十を超える堂々たる老婆であるが、スタイルは抜群に良く、おまけにレッスンでは破廉恥な言葉を多様、特に反語法を使って生徒を震え上がらせるのだ。反語法、要するにここでは誉め殺しのことだ。
「ああ神様! これぞ神様が与えて下さった天分でなくてなんだろう。長生きはしてみるもんだ。こんな才能はじめてお目にかかるよ! あたしゃ嬉しくて嬉しくて嬉しくて狂い死にしそうだね!」
これ、誉めているのではないのである。
『文法の授業で反語法のことを習うよりはるか前から、子供たちはみな、先生が「天才」と言うのは「うすのろ」の意味なのだと知っていた。』
「ぼっ、ぼくの考えでは……」
と生徒が言い訳しようとすると、
「ぼくの考えでは……だって。フン。七面鳥もね、考えはあったらしいんだ。でもね、結局スープの出汁になっちまったんだよ」
実に豪傑で好奇心をそそられる老婆オリガ・モリソヴナであるが、そんな彼女には激動の過去、そして誰にも言えない秘密があったのだ。
スターリンによる大粛清の恐怖はその当時のみならず、人々のその後の人生までを狂わせてしまった。
それを語る一冊。
米原万里でなければ語ることのできない題材を扱っており、それだけでロマンは十分ではあるが、惜しむらくは十分に小説の体を成していないということ。事実関係がどうだかは知らないが書き味がどこまでもノンフィクションなのだ。小説家でない人の書いた小説。これがノンフィクションであればすばらしい作品だと思うが、ノンフィクションで満たすことの出来なかった願望をちょっとしたファンタジーで補い、架空の事実が含まれているから「小説」と名乗っている、そんな気がするのだが。
さて、ノンフィクションとフィクションの違いは、事実か空想か、ってところだけなのだろうか。
たとえば主人公が追い求めているのはオリガ・モリソヴナと再会することなのか?
オリガ・モリソヴナは年齢を詐称している、という設定になっているが、実際にいくつなのかわからない、という設定は読者に「再会できる(存命である)年齢なのか」どうかの判断を迷わせる。迷わせることが目的なのであれば、オリガ・モリソヴナの実年齢が発覚する場面はもっとドラマチックであって良いだろう。
また動機という店では、オリガ・モリソヴナという人物を解き明かすことが主人公にとって切実な願いであるような理由、たとえば中年の「自分の人生に意味があったのか」という悩みをかつてのオリガ・モリソヴナの存在に結びつけ、その謎を解くことで救われると信じているような、そんな動機付けが必要だろう。主人公の挫折のエピソードが通り一遍で、よく描かれていない。
途中からジーナというオリガ・モリソヴナの娘が目標に摩り替わってしまうのだが、そのジーナという娘がまた母とは別な魅力的な人物として描かれていることも、散漫だと感じる。
エンターテインメントに徹すればもっと目的を果たせたのではないか。つまり読んだ人に何かがもっと伝わり、さらに多くの人に本を手にとってもらえ、共産圏にあった恐怖政治の生々しい事実と、それでも存在した文化的な豊かさを鮮やかに表現できたのではないか。
ただ、小説として難点である米原万里のキップの良さ、読む人をじらせ待たせたりできない有能さは反面、全体を上品かつスピードのあるものに仕上げているのは確かだ。
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オススメ度:☆☆☆☆★
オススメポイント:従えと言ってくれ給え
迷宮の魅力とはなんだろう。
解き明かしたい、脱出したいというパズルを前にした興奮。
そして、ぬけだせない不安とないまぜになった、何かにくるまれている安心感。そう、すっぽりと。
フランツ・カフカは人生も小説も全て徹底した人だ。もうこれでもかという徹底した奇妙さ。どんなに小さな段落であってもひとつひとつの文章が宿命的に持っている強い不透明感。どこからも始まらずどこへもたどり着かぬ煮こごって動くことのないドラマ。不条理も突き詰めれば条理となる。
名前もはっきりしないある冬の村に、Kという男がよそ者としてたどり着く。彼は測量技師として城から招かれたはずだった。しかしこの村で見た目と内容が一致することはない。Kが確信していたところのアイデンティティー、測量士としての仕事は村によって徹底的に否定される。彼が測量士であるということが疑われ、測量士の仕事が村にとって必要なのかということが疑われ、ゆるやかに剥奪される。彼は何度もアイデンティティーを喪失し、また別に手に入れなおすのだが、そのたびそれは常に否定され、剥奪される。ある女の婚約者になったり、用務員としての職を得たり、そんなささやかなことすべてがすぐに変容してしまうのだ。手に入れたそばから手の中で。ここでは手に入れたものはあっというまに陳腐化してしまう。そして飲み込まれ還元されるのだ。個々人の輪郭など失くしてしまった、世間というカオスに。
そのとき暴露されるのだ、灯りなどともることのない闇の中にあってすらあからさまに、「世間」と「よそ者」との境界が。
よそ者であるKには村人の心は閉ざされている。彼は否定され、存在を喜ばれない。
ただふしぎなことに、時折人物が真実を吐露するかに見えるのだ。
それはKとそれらの人物たちがふたりっきりになったときだけにあらわれる。
ひとは理解しあい愛し合うとふたりきりになりたがる。けれどただの偶然がもたらしたふたりという単位ですら、人々にある作用を及ぼす。彼らは望むと望まずとに関わらず近付いてしまう。その親密さ、非常なプライベート、近親相姦的な肌合い、この肌に感じる息の暖かみと湿り気、それは他の条理に則った小説では到底実現できない。
”橋亭”のおかみが、酒場のペーピーが、役人の秘書が二人になったとたんに胸襟をゆるめ心うちとけてくる。彼らが今告げているのは真実なのだ、と私は感じる。言葉によってではなく、濃密な空気がそう思わせる。私はあまりに重苦しい感動に押しつぶされそうになる。彼らの真実に奇抜さも新鮮さもないというのに。それは古臭く暗愚な繰言に過ぎない。ただよそ者に思いがけず開かれる彼らの心に感じてしまう。
しかしその融和は一瞬の後に幻想と化す。
ふたりきりでなくなった途端、世間に立場を付与された途端。
ところで城とは一体何なのか。執拗に具体的に描かれた村と異なり、「城」はいつもおなじように仄めかされるだけでその姿を見せはしない。盲目的世間である村に対極するわけでもない「城」。それは何を表しているのか。
権威ではない、と私は思う。傲慢でも、ない。
「城」はただ「不在」を表している、そんな気がしてならないのだ。従えるもの「城」と、従うもの「村」。歴史はいつも「城」しか伝えてこなかったけれど、真に実体をもっているのはおぞましく暗い「村」だったのかもしれない。従うものだけが存在し、従えるものは形骸でしかない。ただただ虚ろだ。
けれどこの村はそんなことは意に介さず綿々と続いていくのだ。村は悲しまない。悲しみは個人の輪郭でしか触れることはできないのだから。
☆面白い、と思ったらここをクリック!☆
オススメポイント:従えと言ってくれ給え
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迷宮の魅力とはなんだろう。
解き明かしたい、脱出したいというパズルを前にした興奮。
そして、ぬけだせない不安とないまぜになった、何かにくるまれている安心感。そう、すっぽりと。
フランツ・カフカは人生も小説も全て徹底した人だ。もうこれでもかという徹底した奇妙さ。どんなに小さな段落であってもひとつひとつの文章が宿命的に持っている強い不透明感。どこからも始まらずどこへもたどり着かぬ煮こごって動くことのないドラマ。不条理も突き詰めれば条理となる。
名前もはっきりしないある冬の村に、Kという男がよそ者としてたどり着く。彼は測量技師として城から招かれたはずだった。しかしこの村で見た目と内容が一致することはない。Kが確信していたところのアイデンティティー、測量士としての仕事は村によって徹底的に否定される。彼が測量士であるということが疑われ、測量士の仕事が村にとって必要なのかということが疑われ、ゆるやかに剥奪される。彼は何度もアイデンティティーを喪失し、また別に手に入れなおすのだが、そのたびそれは常に否定され、剥奪される。ある女の婚約者になったり、用務員としての職を得たり、そんなささやかなことすべてがすぐに変容してしまうのだ。手に入れたそばから手の中で。ここでは手に入れたものはあっというまに陳腐化してしまう。そして飲み込まれ還元されるのだ。個々人の輪郭など失くしてしまった、世間というカオスに。
そのとき暴露されるのだ、灯りなどともることのない闇の中にあってすらあからさまに、「世間」と「よそ者」との境界が。
よそ者であるKには村人の心は閉ざされている。彼は否定され、存在を喜ばれない。
ただふしぎなことに、時折人物が真実を吐露するかに見えるのだ。
それはKとそれらの人物たちがふたりっきりになったときだけにあらわれる。
ひとは理解しあい愛し合うとふたりきりになりたがる。けれどただの偶然がもたらしたふたりという単位ですら、人々にある作用を及ぼす。彼らは望むと望まずとに関わらず近付いてしまう。その親密さ、非常なプライベート、近親相姦的な肌合い、この肌に感じる息の暖かみと湿り気、それは他の条理に則った小説では到底実現できない。
”橋亭”のおかみが、酒場のペーピーが、役人の秘書が二人になったとたんに胸襟をゆるめ心うちとけてくる。彼らが今告げているのは真実なのだ、と私は感じる。言葉によってではなく、濃密な空気がそう思わせる。私はあまりに重苦しい感動に押しつぶされそうになる。彼らの真実に奇抜さも新鮮さもないというのに。それは古臭く暗愚な繰言に過ぎない。ただよそ者に思いがけず開かれる彼らの心に感じてしまう。
しかしその融和は一瞬の後に幻想と化す。
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ところで城とは一体何なのか。執拗に具体的に描かれた村と異なり、「城」はいつもおなじように仄めかされるだけでその姿を見せはしない。盲目的世間である村に対極するわけでもない「城」。それは何を表しているのか。
権威ではない、と私は思う。傲慢でも、ない。
「城」はただ「不在」を表している、そんな気がしてならないのだ。従えるもの「城」と、従うもの「村」。歴史はいつも「城」しか伝えてこなかったけれど、真に実体をもっているのはおぞましく暗い「村」だったのかもしれない。従うものだけが存在し、従えるものは形骸でしかない。ただただ虚ろだ。
けれどこの村はそんなことは意に介さず綿々と続いていくのだ。村は悲しまない。悲しみは個人の輪郭でしか触れることはできないのだから。
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オススメ度:☆☆☆★★
オススメポイント:捕鯨反対
ネイチャー・ライターの必要性。自然を観察し、それについて文章で表現することの意義。写真・動画といった映像技術の発展と普及に伴い、書物による自然の表現の需要は減っていることだろう。つまり、百聞は一見にしかず。
しかし、見ているのか、それが問題だ。映像であれば見た気になり、ましてこの眼前でナマに繰り広げられれば見た気になる。それは曲者。
「月に歌うクジラ」は広い知識に裏打ちされた内容の濃いノンフィクションだ。4つの話が含まれており、それぞれ、こうもり・ワニ・クジラ・ペンギンについて体験をベースに詳しく書かれている。こうもりの種類についてやワニが人間の可聴域を下回る低音で唸ることによって身辺の水が噴水状になること、ワニは爬虫類として完璧であること、それはすなわち究極の省エネルギーであること。またこうもりに人々が抱いているイメージが間近で観測するこうもりとかけ離れていること。印象的な知識は数え上げればきりがない。
文章と絵との、言葉と映像との役割の違いを納得させる良質のネイチャーライティング。
絵図や写真は「そこにあるもの」だけを伝達するには文章より一歩長じているだろう。文章は「そこにないもの」を喚起する。それは曖昧でいいかげんで矛盾している。
未知のものを教える手段として正確さを求めるなら断然映像が良いだろう。しかし、未知そのものを伝えることができるのは、文章だろう。憧れ、畏れ、そういった感情が呼び起こし、私たちの心に植えつけるもの。それが人に夢を見せ、旅行に行かせたり勉強させたりするのだ。
タイトルになっているクジラについては、捕鯨の取りやめを求める人々の姿も描かれている。運動家ではないが、クジラを長く観測し研究していくなかで、保護を提唱している人々だ。
捕鯨禁止による軋轢は、日本が抱えるいくつかの外向的ソゴの中でも異彩を放つ。第二次大戦の侵略の責任問題や経済摩擦などとは違い、ひどく抽象的なのだ。
絶滅の危険のある動物は保護すべきだ。あの絵でしかみたことのない、妙ちきりんなドードー鳥をこの目で見れたら、と私も思う。
鯨の絶滅の危険が単純に頭数という数字の上で語られるチャンスは少ない。鯨は広い世界の海を泳ぎ回っているし、数えるのは困難なのだろう。捕鯨反対の人々は少なく、賛成の人々は多く言う。
捕鯨反対の論拠として「知能が高い動物だから」と良く言われるが、捕鯨する人々にとってはお笑い種ということになる。食べ物の知能が高かろうが低かろうが知るか、ということもあるし、人間以外の動物に深く感情移入しないという文化もあるだろう、日本についていえば一匹の虫だろうと30mのクジラだろうと等しく衆生であるという仏教の価値観からすれば、牛を殺してしゃあしゃあとしているくせに何を、と思う。そもそも人の食べ物を見て「野蛮」というヤツ、そっちのほうこそ「野蛮」だろ、と、もうこうなったら子供の喧嘩である。
しかしこの本を読んで、やっとわかったという気もした。文化の違いの物別れから、私なりの接点が見えた気がした。
それはクジラの研究者の人々が観測地に回遊してくる個体を声や姿で識別していることや、クジラが全世界の海を泳ぎまわっていることにある。
殺されたのが「あの人」ではないか、ということなのだ。
ホエールウォッチャーたちは、その巨躯と威容で深い感銘を与えたクジラを擬人化し、いわば自分のペットのように思っているのだ。
犬を食べることを非難する気はないが、飼い犬を食べられたら話しは別だ。ちょっとなでたことがあるだけの犬だとしても、いやな気持ちになる。
絶滅がどうとか、知能がどうとか、まどろっこしいことで幼稚な願望をごまかしているから、ややこしくなる。
「あの人」を殺さないで、といえば、食べないでやっても、いいのに。
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オススメポイント:捕鯨反対
![]() | 月に歌うクジラ ダイアン アッカーマン Diane Ackerman 葉月 陽子 筑摩書房 1997-07 売り上げランキング : 722927 おすすめ平均 ![]() Amazonで詳しく見る by G-Tools |
ネイチャー・ライターの必要性。自然を観察し、それについて文章で表現することの意義。写真・動画といった映像技術の発展と普及に伴い、書物による自然の表現の需要は減っていることだろう。つまり、百聞は一見にしかず。
しかし、見ているのか、それが問題だ。映像であれば見た気になり、ましてこの眼前でナマに繰り広げられれば見た気になる。それは曲者。
「月に歌うクジラ」は広い知識に裏打ちされた内容の濃いノンフィクションだ。4つの話が含まれており、それぞれ、こうもり・ワニ・クジラ・ペンギンについて体験をベースに詳しく書かれている。こうもりの種類についてやワニが人間の可聴域を下回る低音で唸ることによって身辺の水が噴水状になること、ワニは爬虫類として完璧であること、それはすなわち究極の省エネルギーであること。またこうもりに人々が抱いているイメージが間近で観測するこうもりとかけ離れていること。印象的な知識は数え上げればきりがない。
文章と絵との、言葉と映像との役割の違いを納得させる良質のネイチャーライティング。
絵図や写真は「そこにあるもの」だけを伝達するには文章より一歩長じているだろう。文章は「そこにないもの」を喚起する。それは曖昧でいいかげんで矛盾している。
未知のものを教える手段として正確さを求めるなら断然映像が良いだろう。しかし、未知そのものを伝えることができるのは、文章だろう。憧れ、畏れ、そういった感情が呼び起こし、私たちの心に植えつけるもの。それが人に夢を見せ、旅行に行かせたり勉強させたりするのだ。
タイトルになっているクジラについては、捕鯨の取りやめを求める人々の姿も描かれている。運動家ではないが、クジラを長く観測し研究していくなかで、保護を提唱している人々だ。
捕鯨禁止による軋轢は、日本が抱えるいくつかの外向的ソゴの中でも異彩を放つ。第二次大戦の侵略の責任問題や経済摩擦などとは違い、ひどく抽象的なのだ。
絶滅の危険のある動物は保護すべきだ。あの絵でしかみたことのない、妙ちきりんなドードー鳥をこの目で見れたら、と私も思う。
鯨の絶滅の危険が単純に頭数という数字の上で語られるチャンスは少ない。鯨は広い世界の海を泳ぎ回っているし、数えるのは困難なのだろう。捕鯨反対の人々は少なく、賛成の人々は多く言う。
捕鯨反対の論拠として「知能が高い動物だから」と良く言われるが、捕鯨する人々にとってはお笑い種ということになる。食べ物の知能が高かろうが低かろうが知るか、ということもあるし、人間以外の動物に深く感情移入しないという文化もあるだろう、日本についていえば一匹の虫だろうと30mのクジラだろうと等しく衆生であるという仏教の価値観からすれば、牛を殺してしゃあしゃあとしているくせに何を、と思う。そもそも人の食べ物を見て「野蛮」というヤツ、そっちのほうこそ「野蛮」だろ、と、もうこうなったら子供の喧嘩である。
しかしこの本を読んで、やっとわかったという気もした。文化の違いの物別れから、私なりの接点が見えた気がした。
それはクジラの研究者の人々が観測地に回遊してくる個体を声や姿で識別していることや、クジラが全世界の海を泳ぎまわっていることにある。
殺されたのが「あの人」ではないか、ということなのだ。
ホエールウォッチャーたちは、その巨躯と威容で深い感銘を与えたクジラを擬人化し、いわば自分のペットのように思っているのだ。
犬を食べることを非難する気はないが、飼い犬を食べられたら話しは別だ。ちょっとなでたことがあるだけの犬だとしても、いやな気持ちになる。
絶滅がどうとか、知能がどうとか、まどろっこしいことで幼稚な願望をごまかしているから、ややこしくなる。
「あの人」を殺さないで、といえば、食べないでやっても、いいのに。
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オススメ度:☆☆☆★★
オススメポイント:世界へのきっかけをもとめるひとへ
世界って、なんだ?
辞書を引いてみたけど、いまいちわからない。
宇宙の一部だったり、地球上の全てだったり、限定された分野のことだったり。
えぇ、そうか?そりゃーそういう意味もあるけどさ、ほんとのほんきの意味では、世界って、そんな意味じゃないんじゃないだろ?
しってるぜ、だまされないぜ、
世界っていうのはさ、世界ってことばはさ、
イコール、”全て!”だぜ。
だろ?そうだろ?
ちがうのかな・・。
そういう前提で、世界ってやっぱりよくわからない。
スベテガナンナノカ、ワカラナイ。
学問も情報も政治もこれだけ細分化して莫大な数になってる今、全ての知識を掌握することが世界を知ることだ!と志す気にはなれない。まして世界がシンプルな唯一の原理で成立している、と信じることは、この状況からは難しい。
世界中で起こっていることを、いくらでも知ることができそうに思うのに、私にあるのは、限定された時間とコミュニケーション手段と情報処理能力。
それでもできるだけいっぱいいろんなものを見て、いろんなことをきいて、いろんなことをさわって、世界を知りたい。本でも音楽でも人でも、できるだけ自分を開いて、入ってきて欲しいの。偏見がないとか了見が広いとかじゃない、ただただひたすら貪欲で。うえて、かつえて、かわいてる。欲しくて、欲しくて、たまらない。
好みってすごいよね、それは知ってる、ものすごい安心感。私も好きなものだけに包まれて、ぐっすり眠りたい。狭いところの安住感。時には何日間もそこに閉じこもっていたい。私にだって好みはあるし、疲れることもある。
だけど私、安住なんか、したくない。ぜったいに、したくない。私は本当に本当に知りたいの。欲しくて、欲しくて、たまらない。
なぜ私がここにいるのか、なぜいつかいなくならなければならないのか、なぜそのことに意味がないように見えるのか、なぜそれでもこの人生が生きるに足ると確信しているのか。
せめてそのかけらでも、この手につかみたい、それがどんないたましい形であっても、どんな醜悪な姿でも。その願いが叶うなら、安住などいったい何だろう。
「世界を見る目が変わる50の事実」は、これだけでは、世界を見る目が変わったりはしないかもしれない。世界にいる奴隷の数、同性愛で死刑になる国の数、世界の何十パーセントが電話を使ったことがないのか。扱っている問題は広く現代のテーマを網羅している。HIV、差別、貧困、南北格差問題、暴力、戦争、資源、投票率、環境破壊。どれも広い分深くは追求されていない。また、著者のは自分の見解を強く押し出すのではなく材料だけを提示することを旨としているので、心ゆるがされるようなメッセージ性はない。画期的なのは、突飛な比較ではあるけれど、新聞やニュースに出てくる統計的な数字を異種のデータと並べることにより、数値を新鮮にしていることだ。
数値のように無機質に見えるデータが、この膨大な情報を自分に取り入れる有効な手段であるのなら、その意味をやはり、知りたい、手に入れたい。残念ながらそれらの数字が語って聞かせることは、愛や希望ではない。世界は偏見と暴力に満ち満ちており、武力紛争に寄る死者よりも自殺者の方が多く、愛や希望など微塵もない。私たちはきっと良くなることを目指して進んではいない。悪くなることを目指していないのと同じくらい。
世界を知れば知るほどわかってくるのは、世界はなんら叡智など与えてはくれないどころか、世界は幼く、頼りなく、めくら闇にひたすら時々刻々初めてである刹那を生きている巨大な集合でしかないということだ。何も知らないことでは、私と、同じように。次の動きの予測がつかないことでは、集合であるがために、私より、ずっと激しくぶれ、揺れながら。
知れば知るほど、世界は美しい化粧を落としてくたびれた肌を明かしてくる。けれど、溢れる事実の羅列が、TVニュースで、新聞で、インターネットで、網膜の上をただ滑りぬけていくのでなく、すこしでもこの肌にしみとおってくるようでなければ、愛や希望などもっとも俗悪な妄想に過ぎない。
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オススメポイント:世界へのきっかけをもとめるひとへ
![]() | 世界を見る目が変わる50の事実 ジェシカ・ウィリアムズ 酒井 泰介 草思社 2005-04-22 売り上げランキング : 131 おすすめ平均 ![]() Amazonで詳しく見る by G-Tools |
世界って、なんだ?
辞書を引いてみたけど、いまいちわからない。
宇宙の一部だったり、地球上の全てだったり、限定された分野のことだったり。
えぇ、そうか?そりゃーそういう意味もあるけどさ、ほんとのほんきの意味では、世界って、そんな意味じゃないんじゃないだろ?
しってるぜ、だまされないぜ、
世界っていうのはさ、世界ってことばはさ、
イコール、”全て!”だぜ。
だろ?そうだろ?
ちがうのかな・・。
そういう前提で、世界ってやっぱりよくわからない。
スベテガナンナノカ、ワカラナイ。
学問も情報も政治もこれだけ細分化して莫大な数になってる今、全ての知識を掌握することが世界を知ることだ!と志す気にはなれない。まして世界がシンプルな唯一の原理で成立している、と信じることは、この状況からは難しい。
世界中で起こっていることを、いくらでも知ることができそうに思うのに、私にあるのは、限定された時間とコミュニケーション手段と情報処理能力。
それでもできるだけいっぱいいろんなものを見て、いろんなことをきいて、いろんなことをさわって、世界を知りたい。本でも音楽でも人でも、できるだけ自分を開いて、入ってきて欲しいの。偏見がないとか了見が広いとかじゃない、ただただひたすら貪欲で。うえて、かつえて、かわいてる。欲しくて、欲しくて、たまらない。
好みってすごいよね、それは知ってる、ものすごい安心感。私も好きなものだけに包まれて、ぐっすり眠りたい。狭いところの安住感。時には何日間もそこに閉じこもっていたい。私にだって好みはあるし、疲れることもある。
だけど私、安住なんか、したくない。ぜったいに、したくない。私は本当に本当に知りたいの。欲しくて、欲しくて、たまらない。
なぜ私がここにいるのか、なぜいつかいなくならなければならないのか、なぜそのことに意味がないように見えるのか、なぜそれでもこの人生が生きるに足ると確信しているのか。
せめてそのかけらでも、この手につかみたい、それがどんないたましい形であっても、どんな醜悪な姿でも。その願いが叶うなら、安住などいったい何だろう。
「世界を見る目が変わる50の事実」は、これだけでは、世界を見る目が変わったりはしないかもしれない。世界にいる奴隷の数、同性愛で死刑になる国の数、世界の何十パーセントが電話を使ったことがないのか。扱っている問題は広く現代のテーマを網羅している。HIV、差別、貧困、南北格差問題、暴力、戦争、資源、投票率、環境破壊。どれも広い分深くは追求されていない。また、著者のは自分の見解を強く押し出すのではなく材料だけを提示することを旨としているので、心ゆるがされるようなメッセージ性はない。画期的なのは、突飛な比較ではあるけれど、新聞やニュースに出てくる統計的な数字を異種のデータと並べることにより、数値を新鮮にしていることだ。
数値のように無機質に見えるデータが、この膨大な情報を自分に取り入れる有効な手段であるのなら、その意味をやはり、知りたい、手に入れたい。残念ながらそれらの数字が語って聞かせることは、愛や希望ではない。世界は偏見と暴力に満ち満ちており、武力紛争に寄る死者よりも自殺者の方が多く、愛や希望など微塵もない。私たちはきっと良くなることを目指して進んではいない。悪くなることを目指していないのと同じくらい。
世界を知れば知るほどわかってくるのは、世界はなんら叡智など与えてはくれないどころか、世界は幼く、頼りなく、めくら闇にひたすら時々刻々初めてである刹那を生きている巨大な集合でしかないということだ。何も知らないことでは、私と、同じように。次の動きの予測がつかないことでは、集合であるがために、私より、ずっと激しくぶれ、揺れながら。
知れば知るほど、世界は美しい化粧を落としてくたびれた肌を明かしてくる。けれど、溢れる事実の羅列が、TVニュースで、新聞で、インターネットで、網膜の上をただ滑りぬけていくのでなく、すこしでもこの肌にしみとおってくるようでなければ、愛や希望などもっとも俗悪な妄想に過ぎない。
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オススメ度:☆☆★★★
つっこみポイント:エントロピー
神の死亡が宣告(しばらくの間影武者を立てていた)されて以来、現実と呼ばれる事実の集合は人類の世界観を脅かし続けてきた。
サンタクロースはいるのですか?人の心にいるのです、って問答は美談なの?サンタまで住まわせなきゃならないなんて、広くもない心がくたびれる。
心ココロ、といえば済むのが現代であり、そんなこんなで雑多な矛盾を不法投棄され心は病み衰えている。
かつてそういった諸問題は神もしくはそれに相当する存在が引き受けてくれた。いや、そうではないだろう。そういった諸問題は神もしくはそれに相当する存在を含んだ世界観が引き受けてくれた。
哲学philosophiaは古代ギリシアでは学問一般を意味しており科学という意味でもあった。それが現在のように科学と分離し、思索による独立した営みを差すようになったのは近代になってからである。あまりの科学の発展がそうさせたのだ。
養老孟司氏の根本姿勢は、氏の専門である脳にまつわる最先端科学を礎とした世界観の構築だ。しかし前述のように科学と哲学が乖離してしまっている以上、哲学から科学へのアプローチがそうであるのと同様、科学に足をおいたところで哲学には手が届かない、というのが印象。
彼がこの本で言ってることは、五感で捉えることのできる感覚の領域を現実とし、言葉にされた思想(思想はしばしばこの本の中で思考や思念と混同される)を持たないことが日本の無思想という思想である、ということ。
言葉=「同じである」という強い感覚
(言葉は記号だ、という知れ渡った真理を感覚的に言い表しただけのこと)
という真理を根拠に言葉は現実に即していない、と断定し、実践している。「バカの壁」同様、文章は口述筆記レベルでまったく推敲された感がない。語の定義が曖昧であるのみならず軽はずみで、その時々でまったく違う意味を帯びているので他人に伝わらない。
言葉の抽象性の否定を言語で著述するしかないところに自己撞着がある。
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つっこみポイント:エントロピー
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神の死亡が宣告(しばらくの間影武者を立てていた)されて以来、現実と呼ばれる事実の集合は人類の世界観を脅かし続けてきた。
サンタクロースはいるのですか?人の心にいるのです、って問答は美談なの?サンタまで住まわせなきゃならないなんて、広くもない心がくたびれる。
心ココロ、といえば済むのが現代であり、そんなこんなで雑多な矛盾を不法投棄され心は病み衰えている。
かつてそういった諸問題は神もしくはそれに相当する存在が引き受けてくれた。いや、そうではないだろう。そういった諸問題は神もしくはそれに相当する存在を含んだ世界観が引き受けてくれた。
哲学philosophiaは古代ギリシアでは学問一般を意味しており科学という意味でもあった。それが現在のように科学と分離し、思索による独立した営みを差すようになったのは近代になってからである。あまりの科学の発展がそうさせたのだ。
養老孟司氏の根本姿勢は、氏の専門である脳にまつわる最先端科学を礎とした世界観の構築だ。しかし前述のように科学と哲学が乖離してしまっている以上、哲学から科学へのアプローチがそうであるのと同様、科学に足をおいたところで哲学には手が届かない、というのが印象。
彼がこの本で言ってることは、五感で捉えることのできる感覚の領域を現実とし、言葉にされた思想(思想はしばしばこの本の中で思考や思念と混同される)を持たないことが日本の無思想という思想である、ということ。
言葉=「同じである」という強い感覚
(言葉は記号だ、という知れ渡った真理を感覚的に言い表しただけのこと)
という真理を根拠に言葉は現実に即していない、と断定し、実践している。「バカの壁」同様、文章は口述筆記レベルでまったく推敲された感がない。語の定義が曖昧であるのみならず軽はずみで、その時々でまったく違う意味を帯びているので他人に伝わらない。
言葉の抽象性の否定を言語で著述するしかないところに自己撞着がある。
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オススメ度:☆☆☆★★
オススメ対象:広く老若男女。
オススメポイント:人間に生まれたからには哲学しなきゃ!
哲学・科学・宗教はかつて一つのものだった。
それは唯一の学問であり、政治そのものだった。
しかし文明の発達がそれぞれを別々のものにしてしまった。
科学だけが爆発的に発展したのだ。
この本は哲学の基本的な命題を有名な哲学書の引用、平明な文章、すばらしい順序による構成、わかりやすいたとえによって解説している。
中でも面白かったのは現代科学への哲学的なアプローチである。現代に気分としてはびこっている勘違い、素粒子やビック・バン、遺伝子など、これまで科学が解明してきたさまざまな事実こそ、この世界の成り立ちを説明してくれる究極の真理だとという大きな思い込みに対しての疑問は読んで納得のいくものだ。
子供時代に科学の発展について教えらた私は、全てが科学によって解決されたのだという錯覚を植え込まれた。頭でっかちの、小さな体に。人間の平均寿命はこの数百年の間に画期的に伸ばされ、数多くのワクチンが開発され、レーザーや放射線による治療は日々洗練されていく。子供心に死というものを非常に恐れていた私は科学の強大な力に大いに期待を寄せた。死などというものは単に時代遅れで無粋な「過去の過ちに過ぎず」、もはやそんな下らないミスをおかすものはいないのだ、と。
少なくとも、と私は思った。私が死ぬまでの何十年のあいだ、もしくは年をとったりしはじめるまでの十何年のあいだ、それくらいの時間の間に、何か解決策がみつかるに違いない、人類はその一歩手前にいるのだ、と。
けれどもちろん、人は死ぬ。
自分が不死身でないことを思い知ったのはいつのことだったか。自分が老いていくことを思い知ったのはいつのことだったか。それは不思議と病気や怪我や危険とは無関係な、たぶんただ単に夕暮れの眺め春の終わりの庭の風景、そんな瞬間に降りてきた感覚だったように思う。
寿命が延びることと、不死とはまったく違うものだ。寿命が一日、一ヶ月、いや、一年延びたとしても、我々は全く不死には接近していないのだ。それは全く別のことなのだ。
「
私たちにできることといえば、せいぜい世界の一部分に適用する真理、すんわち幾何学や生理学、あるいは物理学などから得られた「とりあえずの根っこ」を見つけながら、日々の生活を少しでも楽なものにしていくぐらいのことでしかないのでしょうか。
」
この一節に大きく頷く。
また、宗教がおしなべて死後に世界があることを前提としているのを否定する形で科学があるというのは間違いで、科学もまた、死後に世界が存在するということを前提として発展してきた、という論は面白い。
しかしまだ未完成で考えられきれていないという匂いがする。この場合の死後に存在する世界というのは、この現世が我々個人の死後にも存続するということであり、(確かに科学はその前提のもとになりたっている)そんなことは宗教が生まれるよりはるかまえから皆知っていたことなのだから。
このあたりからさらに推し進めて考えてみようじゃないか。自分たちで。
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オススメ対象:広く老若男女。
オススメポイント:人間に生まれたからには哲学しなきゃ!
![]() | はじめの哲学 三好 由紀彦 筑摩書房 2006-03 売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools |
哲学・科学・宗教はかつて一つのものだった。
それは唯一の学問であり、政治そのものだった。
しかし文明の発達がそれぞれを別々のものにしてしまった。
科学だけが爆発的に発展したのだ。
この本は哲学の基本的な命題を有名な哲学書の引用、平明な文章、すばらしい順序による構成、わかりやすいたとえによって解説している。
中でも面白かったのは現代科学への哲学的なアプローチである。現代に気分としてはびこっている勘違い、素粒子やビック・バン、遺伝子など、これまで科学が解明してきたさまざまな事実こそ、この世界の成り立ちを説明してくれる究極の真理だとという大きな思い込みに対しての疑問は読んで納得のいくものだ。
子供時代に科学の発展について教えらた私は、全てが科学によって解決されたのだという錯覚を植え込まれた。頭でっかちの、小さな体に。人間の平均寿命はこの数百年の間に画期的に伸ばされ、数多くのワクチンが開発され、レーザーや放射線による治療は日々洗練されていく。子供心に死というものを非常に恐れていた私は科学の強大な力に大いに期待を寄せた。死などというものは単に時代遅れで無粋な「過去の過ちに過ぎず」、もはやそんな下らないミスをおかすものはいないのだ、と。
少なくとも、と私は思った。私が死ぬまでの何十年のあいだ、もしくは年をとったりしはじめるまでの十何年のあいだ、それくらいの時間の間に、何か解決策がみつかるに違いない、人類はその一歩手前にいるのだ、と。
けれどもちろん、人は死ぬ。
自分が不死身でないことを思い知ったのはいつのことだったか。自分が老いていくことを思い知ったのはいつのことだったか。それは不思議と病気や怪我や危険とは無関係な、たぶんただ単に夕暮れの眺め春の終わりの庭の風景、そんな瞬間に降りてきた感覚だったように思う。
寿命が延びることと、不死とはまったく違うものだ。寿命が一日、一ヶ月、いや、一年延びたとしても、我々は全く不死には接近していないのだ。それは全く別のことなのだ。
「
私たちにできることといえば、せいぜい世界の一部分に適用する真理、すんわち幾何学や生理学、あるいは物理学などから得られた「とりあえずの根っこ」を見つけながら、日々の生活を少しでも楽なものにしていくぐらいのことでしかないのでしょうか。
」
この一節に大きく頷く。
また、宗教がおしなべて死後に世界があることを前提としているのを否定する形で科学があるというのは間違いで、科学もまた、死後に世界が存在するということを前提として発展してきた、という論は面白い。
しかしまだ未完成で考えられきれていないという匂いがする。この場合の死後に存在する世界というのは、この現世が我々個人の死後にも存続するということであり、(確かに科学はその前提のもとになりたっている)そんなことは宗教が生まれるよりはるかまえから皆知っていたことなのだから。
このあたりからさらに推し進めて考えてみようじゃないか。自分たちで。
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オススメ度:☆☆☆★★
オススメ対象:性に裏切られる人
オススメポイント:告白
裕福だった女が落ちぶれて、妹のところに厄介になりに来る。少女だったころに不幸な恋愛をしたためにこの女、ブランチの人生は暗い陰を負っている。彼女はまず、古くからの屋敷を手放してしまったのだと妹に打ち明ける。しかし彼女は嘘をついている。屋敷を手放しただけでは、なかった。彼女の不幸はもっと根が深かったのだ。
一番のクライマックスは第六場、ブランチがミッチという男と互いの不幸な過去を打ち明けあうシーンだ。恋人を病気で失ったというミッチの話しにほだされ、ブランチはかつての結婚について打ち明ける。十六のとき初めて恋をした。暗がりから突如光に晒されたように世界が目の前に現れるような、そんな恋だった。
「でも、運が悪かったのね、わたし。」
彼女は言う。
どうにもならないほど絶望的に愛していた夫は、同性愛者だった。
”そのこと”を率直に語ること自体がまだタブーだった時代の戯曲だ。同性愛、という言葉すら一度も使われていない。
それを語る言葉がないということが、ブランチの告白をより生々しい苦悩にゆがめる。
「その人にはどこか変わったところがあったわ、繊細で、感じやすいって言うか、何か男らしくないところが―――見た目は全然、女っぽいわけじゃないのよ――でも――あったのね、そういうところが」
彼の性癖を示唆する言葉はこれだけ。
彼は同性愛者であることに苦しみ、ブランチに救いを求めていた。しかしブランチにはそれがわからなかった。
「わかっていたのは、わたしがどうしてだかあの人を失望させたってことと、あの人が求めながら口に出せないでいた救いを与えてやれなかったってことだけ!」
彼らは肉体関係を結べなかったのだろう。その失敗を示唆する言葉もこれだけ。
「あの人は蟻地獄にはまって、わたしにしがみつこうとした――なのにわたしは、ひっぱりだしてやらずに、いっしょに滑り落ちていったの!それがわかってなかったのよ、わたしには。何も分かっていなかったの、ただ、なんとなく、彼をたまらなく愛しているのに、救ってやることはできない、自分を救うことも出来ないって感じてた。」
だってどうしてわかるだろう、なぜうまくいかないのか、なぜわたしのこの恋はこの結婚はこんなに絶望の予感をたたえているのか?彼女にそれがわかるはずがあっただろうか。16歳、初恋だった。目がくらむような恋だった。
「そしてある日、分かったの。考えられる限り最悪の形で。誰もいないと思って、ふと入った部屋に、――誰もいないどころか、二人の男がいて・・・」
夫の男との浮気現場に足を踏み入れてしまったことを示唆する言葉も、これだけ。
ついにそのことを知ったブランチはダンスの最中に夫を決定的に傷つけてしまう。(短調のポルカが流れる、とト書きにしばしば繰り返されるのはこの体験の繰り返しになる。)
「見たわよ!嫌らしい!ゾッとするわ・・・・・」
彼にぶつけた言葉も、これだけ。
夫は、咥えた拳銃をぶっぱなした。
彼女の打ち明け話を聞いたミッチは、二人が互いの伴侶になれるのではないか、と提案する。そのキスにむせび泣きながらブランチはこう言う。
「ときには――神様が――こんなに早く!」
皮肉なセリフだ。
なぜならそれは、あまりに遅く、だったのだから。
ミッチは何もわかっていなかった。彼女の人生はとっくの昔にめちゃくちゃのぐっちゃぐちゃに壊れ果ててしまっていた。マザコン男の感傷なんかで救うことができるなんてお門違いの手遅れ、とんだお笑い種だったのだ。
彼女は学校の教師でありながら夜な夜ないかがわしいホテルに出入りして見知らぬ男に体を売り、生徒である少年に手を出して学校からも町からも放逐された身だったのだ。
彼女の夫のそれがそうだったように、彼女の性はタブーであり持ち主を苦しめ破滅させるものとして描かれている。欲望は持ち主と食い違い、先天的に絶対的に不一致で永遠に同一になれないのだ。
やがて彼女の秘密は暴かれ、ミッチは彼女から離れていく。もともと風前の灯火だった彼女の人格は追い込まれ崩壊する。だからこの告白による交感はもろくはかない。それでも私はこの告白のシーンが好きだ。
”それ”を語る言葉の少なさにもかかわらず、ここにはぎりぎりの真実、渾身の真実の発露がある。どぎつければいいというものではないのは確かだが、かといって少ないから良いのではないだろう。許されることも許されないことも頼りなく移り行く時代の中、その人なりの限界の中、戦いの果てに搾り出された言葉だけが生み出す、迫力なのだろう。
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オススメ対象:性に裏切られる人
オススメポイント:告白
![]() | 欲望という名の電車 テネシー ウィリアムズ Tennessee Williams 小田島 恒志 慧文社 2005-08 売り上げランキング : 323,279 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
裕福だった女が落ちぶれて、妹のところに厄介になりに来る。少女だったころに不幸な恋愛をしたためにこの女、ブランチの人生は暗い陰を負っている。彼女はまず、古くからの屋敷を手放してしまったのだと妹に打ち明ける。しかし彼女は嘘をついている。屋敷を手放しただけでは、なかった。彼女の不幸はもっと根が深かったのだ。
一番のクライマックスは第六場、ブランチがミッチという男と互いの不幸な過去を打ち明けあうシーンだ。恋人を病気で失ったというミッチの話しにほだされ、ブランチはかつての結婚について打ち明ける。十六のとき初めて恋をした。暗がりから突如光に晒されたように世界が目の前に現れるような、そんな恋だった。
「でも、運が悪かったのね、わたし。」
彼女は言う。
どうにもならないほど絶望的に愛していた夫は、同性愛者だった。
”そのこと”を率直に語ること自体がまだタブーだった時代の戯曲だ。同性愛、という言葉すら一度も使われていない。
それを語る言葉がないということが、ブランチの告白をより生々しい苦悩にゆがめる。
「その人にはどこか変わったところがあったわ、繊細で、感じやすいって言うか、何か男らしくないところが―――見た目は全然、女っぽいわけじゃないのよ――でも――あったのね、そういうところが」
彼の性癖を示唆する言葉はこれだけ。
彼は同性愛者であることに苦しみ、ブランチに救いを求めていた。しかしブランチにはそれがわからなかった。
「わかっていたのは、わたしがどうしてだかあの人を失望させたってことと、あの人が求めながら口に出せないでいた救いを与えてやれなかったってことだけ!」
彼らは肉体関係を結べなかったのだろう。その失敗を示唆する言葉もこれだけ。
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だってどうしてわかるだろう、なぜうまくいかないのか、なぜわたしのこの恋はこの結婚はこんなに絶望の予感をたたえているのか?彼女にそれがわかるはずがあっただろうか。16歳、初恋だった。目がくらむような恋だった。
「そしてある日、分かったの。考えられる限り最悪の形で。誰もいないと思って、ふと入った部屋に、――誰もいないどころか、二人の男がいて・・・」
夫の男との浮気現場に足を踏み入れてしまったことを示唆する言葉も、これだけ。
ついにそのことを知ったブランチはダンスの最中に夫を決定的に傷つけてしまう。(短調のポルカが流れる、とト書きにしばしば繰り返されるのはこの体験の繰り返しになる。)
「見たわよ!嫌らしい!ゾッとするわ・・・・・」
彼にぶつけた言葉も、これだけ。
夫は、咥えた拳銃をぶっぱなした。
彼女の打ち明け話を聞いたミッチは、二人が互いの伴侶になれるのではないか、と提案する。そのキスにむせび泣きながらブランチはこう言う。
「ときには――神様が――こんなに早く!」
皮肉なセリフだ。
なぜならそれは、あまりに遅く、だったのだから。
ミッチは何もわかっていなかった。彼女の人生はとっくの昔にめちゃくちゃのぐっちゃぐちゃに壊れ果ててしまっていた。マザコン男の感傷なんかで救うことができるなんてお門違いの手遅れ、とんだお笑い種だったのだ。
彼女は学校の教師でありながら夜な夜ないかがわしいホテルに出入りして見知らぬ男に体を売り、生徒である少年に手を出して学校からも町からも放逐された身だったのだ。
彼女の夫のそれがそうだったように、彼女の性はタブーであり持ち主を苦しめ破滅させるものとして描かれている。欲望は持ち主と食い違い、先天的に絶対的に不一致で永遠に同一になれないのだ。
やがて彼女の秘密は暴かれ、ミッチは彼女から離れていく。もともと風前の灯火だった彼女の人格は追い込まれ崩壊する。だからこの告白による交感はもろくはかない。それでも私はこの告白のシーンが好きだ。
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オススメポイント:紀元前のバーコード
「ねえ死んだらどうなるの?」
子供の頃そう聞くと父は
「何もなくなるんだよ」
と答えた。
しばらくの間、父はなぜあんな心無いことを言ったのだろうと、私は考えていた。子供に教えるにはあまりに身勝手な正しさに思えたから。そうだ、子供に教えるとしたら、星になるとか、きれいなお花畑のあるばしょでおばあちゃんに会えるとか、そういうことを言うのがまともじゃないか?
でも今にして思えば、誰よりも父自身が「何もなくなる」ことを恐れていたのだろう。その理不尽さへの恐れは、彼自身にもどうにもならないほど深かったに違いない。その魂の震えが、その瞬間に、娘に継承されたから。そのとき、私たちの背骨は一列に繋がったから。
その日から、私はその解けることのない謎を抱えている。そしてきっとわが子にもそれを引き継いでしまうのだろう。
さておき、父はその代償というか、代替機能として、私にひとつのレトリックを与えた。それはたぶんギリシャかローマ時代の古いレトリックだったと思う。
「目的地までの残りの距離を二等分し、つねに1/2しか進まないよういすれば永遠に目的地まではたどり着かない」
確かに新宿を目指して大門を出発し、まず青山一丁目まで、次は千駄ヶ谷、ここから信号いくつとか、何歩とか、何センチとか、数学的には夢幻に1/2できるわけだから、永遠に新宿に辿りつかない。
それを父は死を恐れる私に、人生に当てはめてみせて与えたのだった。
レトリックにごまかされるのはたいてい大人であって、子供の直感はその滑稽さを見破っている。私もそれが時間という否応ないものにあてはめるのは無理だということは嗅ぎつけていて、「1/2だけ進むなんてことができるもんか」ということは知っていたのだが、それでもそのレトリックは私を救ってくれた。
死んだら何もなくなる、そのシンプルさから、私の目をそらしてくれた。今でも私はそのレトリックに時折すがっているのだ。
セネカの「人生の短さについて」は、限りある人生を世俗を離れ隠遁し正しい生き方をすることによって永遠に変えることができる、と説いている。求めているのは永遠に終わらない生であることが中国の老荘思想などに比してもそのあがきたるやなんとも幼稚に思われる。そこで私は思い出す、父の教えてくれた、1/2のレトリックを。
「まず半分にするんだ、そして半分だけ進むんだ、そしてまた半分にする。ずうっと半分にできるんだから、何もなくなったりはしないんだよ。」
私の背骨は父を通ってはるかはるか紀元前にまでさかのぼり、ずっととけることのない謎を受け継いでいる。
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「ねえ死んだらどうなるの?」
子供の頃そう聞くと父は
「何もなくなるんだよ」
と答えた。
しばらくの間、父はなぜあんな心無いことを言ったのだろうと、私は考えていた。子供に教えるにはあまりに身勝手な正しさに思えたから。そうだ、子供に教えるとしたら、星になるとか、きれいなお花畑のあるばしょでおばあちゃんに会えるとか、そういうことを言うのがまともじゃないか?
でも今にして思えば、誰よりも父自身が「何もなくなる」ことを恐れていたのだろう。その理不尽さへの恐れは、彼自身にもどうにもならないほど深かったに違いない。その魂の震えが、その瞬間に、娘に継承されたから。そのとき、私たちの背骨は一列に繋がったから。
その日から、私はその解けることのない謎を抱えている。そしてきっとわが子にもそれを引き継いでしまうのだろう。
さておき、父はその代償というか、代替機能として、私にひとつのレトリックを与えた。それはたぶんギリシャかローマ時代の古いレトリックだったと思う。
「目的地までの残りの距離を二等分し、つねに1/2しか進まないよういすれば永遠に目的地まではたどり着かない」
確かに新宿を目指して大門を出発し、まず青山一丁目まで、次は千駄ヶ谷、ここから信号いくつとか、何歩とか、何センチとか、数学的には夢幻に1/2できるわけだから、永遠に新宿に辿りつかない。
それを父は死を恐れる私に、人生に当てはめてみせて与えたのだった。
レトリックにごまかされるのはたいてい大人であって、子供の直感はその滑稽さを見破っている。私もそれが時間という否応ないものにあてはめるのは無理だということは嗅ぎつけていて、「1/2だけ進むなんてことができるもんか」ということは知っていたのだが、それでもそのレトリックは私を救ってくれた。
死んだら何もなくなる、そのシンプルさから、私の目をそらしてくれた。今でも私はそのレトリックに時折すがっているのだ。
セネカの「人生の短さについて」は、限りある人生を世俗を離れ隠遁し正しい生き方をすることによって永遠に変えることができる、と説いている。求めているのは永遠に終わらない生であることが中国の老荘思想などに比してもそのあがきたるやなんとも幼稚に思われる。そこで私は思い出す、父の教えてくれた、1/2のレトリックを。
「まず半分にするんだ、そして半分だけ進むんだ、そしてまた半分にする。ずうっと半分にできるんだから、何もなくなったりはしないんだよ。」
私の背骨は父を通ってはるかはるか紀元前にまでさかのぼり、ずっととけることのない謎を受け継いでいる。
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